映画『ボーはおそれている』面白そうだ。ミッドサマーもよかったし、何より”自分の思想に近い”何かを感じるから。
上のが過去記事です。
聞く限りだとかなり強迫性障害(の一種)に近い気がする。
僕はそういう自分と似たタイプ、あるいは症状は違っても近い気質を持った人たちの症例だったり、経過を見るのが好きだ。
ある意味でそれは癒しになっている。(相手はそう思わないだろうが)仲間を探しているんだと思う。
ただ、とにかく人が多い。ミッドサマーをはじめ最近は本当に、
所謂ミニシアター的な映画が大きく取り上げられることも多くなった。
その分いろんな人間が見に来る。
SNSでバズりたい人、ネタとして消費する人。
もちろん映画を観る目的は高尚なものでなくていい。ただ僕が単にそういう人間と席を並べたくないだけで。
ハッピーセットのカービィのぬいぐるみも、なんだか色々複雑な所もあったけど諦めることにした。(元々は買うつもりでいたが、大喜利が始まったので。)
日本という巨大な村の中で噂話しているようなものだと思う、twitterは。
政治や真面目なテーマもしょうもないスキャンダルも誰かの日常も等しく流され続ける。本当に人間と同じ空間にいたくないので、最近は買い出しか直帰しかしてない。
そもそも、無駄遣いする所もないし。
SNSが心底人間を憎む原因なら、SNSをやめた方がいいのだけれど。
======
人間関係リセット癖がある。
最近よく考えるのは、今の職場をこのまま続けるのか。
(状況的には、今の条件のまま雇用されるならまだいいが何か追加で面倒なものを背負わされそうなら辞めようと思っている。)
ただそれとはまったく別の観点、リセット癖によるものだが「もうそろそろ潮時かもしれない」という感覚が浮かんでくるようになった。
前の職場でも「いつか辞めよう」が時限式で発動した結果、辞めることにした。
人間関係リセット癖のパターンは色々あるので気になる人は検索してください。
僕の場合は大別的には「失敗を恐れて。一度失敗したら信頼が失われて終わりだから」ということになるのだと思う。
でも別に社会人になって数年でそういう「失敗を恐れる」みたいなのは少なくなった気がするから、どこか当てはまらない感じがあった。
完璧主義で自分が許せないというのはまあ、だいたい合っている。
けれどそれ以上に、年々そこに所属して信頼を得たとして、周りに「以前は指摘されていたが、今は指摘されない」ミスが出てくる。
僕はその、自分が罰せられるべきなのに罰せられないという感覚が苛立たしいのだと思う。お互いなあなあになって許されている甘えなのではないかと。
自分は過去の自分と同じミスをしている、しかもn回目ということは失敗から学ばないという点で、初回の自分以下である。
そしてこれは最近気づいた思考だが、
「失敗は次に生かさなければならない」という強迫観念のようなルールが自分の中にあり、しかもそれを曲解しているようだ。
失敗を次に生かす。初心者のうちは失敗1つで3つ学ぶことがあるとする。
そうすると、熟達するたびに経験値は増えていき、初めての失敗は一通り経験済みになる。そうなると相対的に失敗から得られる学びは2つ、1つとなっていく。
得られる信頼はだんだん厚くなるが、失敗した時は「なぜ?」と問われるような気分になる。それは錯覚で、自分自身がなぜと自責している場合が大半だと思うけど。
能力の伸びしろが無くなる。
そうやって経験値が一定量に達する=伸びしろが無くなると、失敗は単なる学びのない不注意になる。
きっとこれからは(自分は十分に熟達したとみなされているのだから)失敗したら信頼は崩壊するだろう。と思ってしまう、感覚的に。
能力の伸びしろが無くなると、それ以降は信頼をいかにすり減らさずやっていくというか。
ごく一般的な社会人のまともな対応としては、誤りがあれば誠実に謝罪し対応することが最善なのだとされている。
僕もそうだと思うし、周りに同じミスを繰り返している人がいてもあまり気にはならない。(そもそもここまで自意識過剰になっていると、他者のミスでは全然傷つかない。他者が見えないから。)
「社会人の対応」は大人になって学んだ知識だ。
でももっと生得的な部分で、「もう信頼は取り戻せない、絶対に消えない傷跡(瑕疵)が積み重なっていくんだ」というイメージが常にある。
最終的に、皆が自分にうんざりするであろう地点に辿り着く前にそこから逃げ出す。
逃げ出した時にやっと、心の底から安心できる。
もう失敗しても大丈夫だから。
======
こういう思考でいると、他者評価もそうではないか(自分にも他人にも厳しいのでは)と思われることもある。
自分に適用するルールを他人にも適用させようとする人ではないか?と。
決してそうではない。僕は上記に述べた「失敗してはいけない」思考を他者に押し付けることはないし、もし無意識にそれを求めてしまっていたら謝罪して二度とそうしないようにする。
小学生くらいの頃、よく図書館の本を「自分が触っても汚れないかどうか確認する」ことがあった。
しかし母は怒った、「あなたは他の人が触った本は汚いと言いたいの?」
僕は当時は訳が分からなかった。だって僕と他者は別物だから。
僕は僕という肉の機体を操縦しているのであって、他の機体を操縦する人とは全く別物だ。肉の機体も他者の機体とは別だ。
でもおそらく、そういう意味ではなかったのだろう。「僕は汚れているが、他者は汚れていない」という前提に僕はいる(あるいは「僕だけが汚れているのではないか?」という懸念)。それは普通ではないらしい。
多分「自己を愛するように他者を愛しなさい」という言葉が自己愛を前提としているように、そちらの方が多数派の考え方なんだと思う。
======
「自分に厳しく他人に優しく」あるのが目指すべき目標なのだと思ったし、大人は自分がそうなるように教育をしているのだと思っていた。
教育上のおはなしでよくある
「他者には協力し手を差し伸べなさい。優しい人間でありなさい」と
「自分の目標に向かって他人に甘えずに自分に厳しく進みなさい」、
この二つを盲信したまま成長した。
しかしこれは上記の「自己を愛するように他者を愛しなさい」ということとは大きく食い違う。
二律背反的というか、これを両方保持するのは困難だと思う。でもそうしなさいということになっている。
解決法は「グレーであれ」ということなんだと今は思っている。
人間には建前があるし、教育では本当でないこともまことしやかに教えなければ社会が崩壊するからそう教えているだけなのだと。
それに自然に気づけている子どもならば……
「手抜きや失敗や怠惰は良くないこととされているが、時には必要である」ということなども生きる上では理解できなければならない。
それを理解できない人を「頭が固い、融通が利かない」と表現するが、
この表現は上記のグレーな部分、曖昧な正しさや倫理やケースバイケースという部分を理解できない、というニュアンスを内包している。
僕は例によって色々な人から「融通が利かない」と言われてきた。
良くないことなんだと思いつつ、かつて教わったルールには従わないといけない。
そういう葛藤の中で、表向きと裏向きの顔を使い分けたりして社会生活を送った。
30代のいい大人になった僕は今、自分がバラバラに自己乖離していってしまって、
それらを同時進行で保ち続けるのが難しい。
難しく考えすぎるなと、皆は言った。
僕は難しく考えるところまで考えつくさないと、一歩も身動きが取れなかった。
全ては仕方のないことだったと思う。
以上です。