壁打ち

感想、考察、日記、メモ等

20231117(ゆとりの僕、いじましい文化)

いじましい文化。

過去の事実やトラウマ、いびつな視点、ラベリング、それらがアイデンティティに繋がりつつ、自らのいじけたような精神性を晒す行為。それらに起因する作品群。

※これは僕がこういう概念を総称しているだけで、固有名詞ではないです。

 

 

ふと朝このことについて考えが止まらなくなり、スマホにメモしておいたのだが、

日中過ごすうちにすっかり頭から飛んでしまった。

 

その程度の軽さだけれども、すぐに取り出せる程度には自分の中で確立した概念?である。僕は幼少期からずっと、こういう精神性に憑りつかれていたため。

 

 

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・ゆとりの僕

 

小学四年生くらいの頃、教師は僕たちの学年全員をワークスペース(ちょっと広い廊下みたいなところ)に集めて、こう演説した。

 

「自分たちだけが悲劇のヒーローやヒロインだと思うな。不幸ぶるな」

 

結局何が言いたかったのかはわからなかったが、このフレーズが強く印象に残っている。

 

 

(今思うと、当時はお局っぽい女性教師が学年主任、20代~30代の担任教員という構成だった気がする。

演説は子どもたちから人気のあった20代の男性教師がしたのだが、もしかしたら上司の指示によってそうしろと指示されたのかもしれない。

 

でも体育の時間、バスケの試合を急に止めて「お前らは真剣にやっていない、もっと真剣にやれ!」と指導した後、

再度試合をさせて「な?さっきの試合より面白かっただろう」と言い放った教師だったので、

上記の演説も本人のたっての希望だったのかもしれないが。

僕は前の試合の方がリードしていたし、シュートもできたので前の試合の方がよかった。周りの同級生が教師の目につくほどふざけていたのかは知らない。)

 

 

脱線したが、悲劇のヒーローやヒロインになるなというのが同級生のどういう行為から発せられたものなのか、学年全体に感じた熱意の無さみたいなものなのか。

別に他の世代と違って、ペシミズム漂う子どもの集まりだったとは思わないが。無気力世代の子どもだから?

(いわゆる陰キャな僕ですら、今ほど暗くはなかった。)

 

 

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しかし演説虚しく、僕の中では脈々と「いじましい」精神が流れ、育ち続けた。

ゆとりゆとりと社会から馬鹿にされ、教師たちにも「特にうちの学年は出来が悪い」と保護者会で言われるような、愚かな我々。愚かさを思い知らされた我々。

 

 

そんな我々は年を取り成人した。

独断で進む政治に選挙で対抗しようとするも、結局は何も変わらない生活。もしくは選挙に行かない人間もいるかもしれない。

生まれた時代で馬鹿にされ、無価値な存在の烙印を押されたのなら、カードが配られた時に勝負はもう決まっている、そう思い込む。社会は変わらない。

 

「同世代でもうまくやっている奴はいるだろう」?

それは勿論、だって彼らは価値のある人間だったから。

それ以外は国民の、あるいは労働者として動く肉塊の頭数としての存在価値なんだろう。

少なくとも僕はそう思っている。

 

 

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当時僕たちの前で一席ぶったあの教師と、その周りの教師たちはこのことを覚えているだろうか。

 

熱血学園ドラマに憧れて教員を目指した人間が集う、夢のある時代だったのかもしれない。それに見合わない生徒をあてがわれて不満だったのだろうか。

もっとガラスを割ったり暴れまわったりした方がやりがいがあって、教師生活が充実しましたか?もう20年も昔の話だけれども。

 

昔の僕は素直だったので、そういうのはダメなんだ、と思った。具体的にどうすればよいのかはわからなかったけれど。

あと「ジコチュー」もダメだとテレビでやっていた。自分はジコチューにならないぞ、と気をつけていた。

 

さて、自己中心的であることが必ずしも絶対悪ではないこと、わがままと自分の主張や意見を持つことの違い、そういうことについて説明できる大人はいるのだろうか。

それこそ、アジテーションのできる人間だろうか。

 

僕はもともとそういう気質の人間だったのだろう、

立派な悲観主義者のクズに成長できました。

 

 

例の教師たちは僕と同世代の部下を持って現場にいるか、役職者でしょう。

部下に向かって「俺たちの時代は今の時代と違ってそんなやわじゃない、教育の被害者ぶるな」とか言っているのだろうか。

教育現場の過酷さがニュースで取り上げられているくらいだから、現場で頑張っている人たちはずいぶん疲弊しているだろうな。

 

 

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・いじましい文化

 

いじましい文化…的なものはもともと存在していて、これはファンの方々にいうと怒られるかもしれないが、「ねこぢる」とか「戸川純」とか、それらを源流とした感じ。

80~90年代くらい?アングラ系というジャンルに分類されていたものの一部。

 

病み系、精神疾患、暴力被暴力、社会的弱者etc……

 

華やかな時代、バブルな時でもそういうものはあったらしい。僕は詳しくないが、多分バブリーな人間たちに引き摺り出されて見世物のようになっていたのかもしれない。

 

 

今もまさに、そういう時代だと思う。

ポップカルチャーとインターネットスラム大喜利に乗せて、炎上、弱者男性、ADHD/ASD等発達系障害、毒親、病み垢、OD、迷惑系youtuber、推し活破産……

からの「生きてるだけでえらい」とか。

 

賑やかな世界の中で、そういうエッセンスが混在する。

そして界隈の中でも分断や流派が存在して、イガイガした空気に押し込まれている。

逆にそこが逃げ場所になってもいる。

 

(この記述には多分偏りがある。僕が無意識的に自分に居心地のいい世界しか見ないから。

もし「違うぞ!」と思う人がいたら、それはあなたの世界観だからで、ここに書いてあるのは僕の世界観だからです。)

 

 

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「同質の原理」という言葉があって、僕はこれを戸川さんの著作から知ったのだけれども、

 

そういうシンパシー的なものを渇望しているのではないかと思う。

 

事件の加害者に対して「いつかは自分もこうなるかもしれない」と思うような。

 

作品というのは表現されたもので、それを好きということやそれについて言及することそのものも、今や自己表現になっている。

私が好きなものを並べれば、それらが自分の形に置き換わっていくような。

 

 

 

以上です。