急に思い立って観に行った。
もし上映終了後、金曜ロードショーでも他媒体でも公開しません、ジブリ美術館現地でだけ観られますとかになったら……と思ったから。
あと、鳥が見たかったので。
※パンフや関連動画等の情報を知らないので、映画だけ観た個人の感想です。
だいたい、時系列順。
======
・鳥がたくさんいてよかった。
アオサギは(もののけ姫のサンの戦闘装束のような)かっこいいイメージだったので、正直ちょっと夢が壊れた。
謎のちっちゃいおやじが出てくること自体は別にいいが……
・火事が怖かった。
ヒミは少女の頃、炎を操ることができた?ことから、炎は怖くなかったのかもしれないが。
彼女は自分の死を肯定できたかもしれないが、真人はそれを受け入れられるのか、とは思った。わずかなひと時を共有しているから大丈夫、ということなのだろうか。
・大叔父の建物に入る直前、お付きのお婆ちゃんが
「あなたは夏子さんを憎いと思っているに決まっている。だから助けに行くなんておかしい」と言う。
その言葉は真人への非難の意図はなく、もう婆ちゃんは本音とかを割り切ってるような年齢であるだけで、人間ならそう感じてしまうものだろうというところから発しているけれど、
真人はまだ少年で、大人に与えられた「誠実さ、正しい行いができる人であること」という教え、
例えば父の愛した人を助ける親孝行とか、そういう人間になるべき、努力すればなれるはずとまだどこかで信じている年頃なのではないかと思う。大人への不信感はあれど。
だから「憎いけど(あるいはまだ好きにはなれないけれど)助けに行く」のは当たり前のことだと思える、そうあるべきだと感じているのではないだろうか。
・父親(勝一)は自分の仕事と名誉と家族(体裁としての家族)を愛していて、自分でもそれが心の底からの愛情と信じてはいるが、やはり社会への見栄もある。
だから真人も夏子さんもどこか枯渇感があるかもしれない。
こういうタイプの人間がいるからこそ回る世界があるのもわかる。
そして、本人はそれ(愛情と体裁が混在していること)を自覚していないのかもしれない。でもそれ自体が悪じゃなく、そういうふうにできている人なんだと思う。
・お腹の赤ちゃんが無事かずっと気になってソワソワした(駿さんがそういう直接的にきつい描写はしないだろう、とは思っていたけど)。
夏子さんはあの世界に逃げて、安全に子どもが産めたら帰される予定だったのかもしれない(大叔父様の意向で)。
常に現実世界は不安で満ちていたというか、
戦火と隣り合わせの世界で子どもを産み育てることだったり、姉の子が負った傷に自分の一側面(真人がいるのは嫌な?複雑な気持ち)を見るようで、
現実世界は安全でないと本能的に察知したのかもと思った。
(真人は「行きたくて行った訳じゃないと思う」と言ってるし、アオサギが真人をおびき出すためのきっかけにしようとしたのだろうけど)
ヒミが昔「一年行方をくらませてから帰ってきた」のも、彼女にとって実家?屋敷が安全ではなかったからなのかもしれない。
・おばあちゃん(キリコ)が若くなったのがよかった。彼女の現実世界での過去そのままというよりは、一種の並行世界のように感じた。
時間の経過も現実世界とは違うようだし、各々のモラトリアムを過ごす場所だったのかもしれない。彼女もあの世界にどのくらい暮らしたのか不明だ。
・ペリカンが悲しかった。
生きるために必死で旅をして、行き着いた先が「ヒトの子になるはずの生命を喰らわずにはいられない世界」であること、
しかもよりによってペリカン(子どもを運んでくるとされているコウノトリと分類が近い)であることが痛ましい。
流れ流れてではあっても、そう帰結してしまったことが彼らの罰であり、地獄に取り残される因果なのかと思った。
・ヒミの声があいみょんで嬉しかった。声が好きなので……
(駿さんはパプリカを聴いて米津さんを知ったと聞くし、紅白やNHKは観てるのかなと思った。
主役はオーディションだろうけど、他の役は役者さんやアーティストの起用が多いのは、作品作りで誰の声がよかったとか、脳内ストックがあるのだろうか)
ヒミが自由というか、解放された世界にいるようでよかった。それは逆に、現実世界で何か居場所のない思いをしたという示唆なのかもしれないが……
・夏子のいる部屋に案内した時、ヒミはここに入ることは禁忌だからダメとは言わず
「石が拒絶している。私なら入らない」とだけ言う(台詞は曖昧です)。
彼に「これはこの世界では禁忌だから」という事前説明はしない。
それがしきたりだから、社会的ルールだからということではなく、実際に石の魔力の恐ろしさがあるから「禁忌」なのだという印象だった。
対してインコ大王は「タブーを破った」という口実として、自分に都合のいい展開に持ち込もうとする。
ここでいう場合の「禁忌」は形だけのもの、社会的ニュアンスでしかない気がする。
インコたちは多くを語らなかったが、子持ちの人間を食べてはいけないというのも、社会的倫理的なニュアンス(それくらい「インコの王国」は社会性を持った集団である)ではないかと思った。確実性はないが。
セキセイインコは飼ったことがある身としてはもう少しかわいい方が好みだったけど、人間を象徴する存在としての鳥類なら仕方ないかもと思う。
(人間だと生々しすぎる描写や悪意が、薄まるから)
↑↑これは世間のどの作品にも言えるけど、「非人類」に逃げていて少しずるいかもしれない。
けれども、生々しさを取り除くことで世界がどう在るかの描写純度が高まるなら、より明確に伝わっていいのかもしれないとも思う。
南国風の場所で「ここがご先祖様のいた場所だ、天国だ」と感涙していて、少し涙が出た(セキセイインコがオーストラリアを原生地としているから)。
・もし真人が大叔父の後を継ぐなら、世界はもっといい形で平和や希望に溢れたかもしれない。
真人が選ばなかったことで、少なくともこの後に続く「我々の現実」は平和や希望に満ちた世界ではなくなった。もちろん彼が引き継いだとしても、世界がどう展開していくかは分からない。
けれど結果やその先の未来以前に、
本人の意志でこの世界を継ぐかどうかを選ばねばならない、ということが大事なのだと思った。
真人が自分の手が汚れていると思った以上、それは完全たり得ないのだろう。
大叔父様の世界をヒミは愛していたのが分かって切なかった。
======
ジブリの映画を見ていればいるほど、「あれはあのシーンに似ているな」というのが多いと思う。
過去作品を彷彿とさせるような世界が入り乱れているので、知っている人は懐かしさを感じる。日本人の数世代に渡って知られているアニメーションだし。
それらのシーンは突拍子もないくらいお互い離れているけれども、なだらかに繋がっていて、「夢をみた時の急な転換」みたいなのを再現しているようですごいと思った。
(ゲド戦記の件、ネットで調べられる程度のことしか知りませんが……
インコから隠れて扉の廊下にいく場面や迷路のような世界を少女が案内するシーンは、原作のゲド戦記(多分2巻)を彷彿とさせた。
アニメーションの許可取りをした当時は、こういうシーンが描きたかったのかもしれないなと思った。
※あくまでも推測)
「ジブリ作品のあのシーンに似てる」という印象を懐かしさと感じるか、古参の連想するノイズと取るか、監督のアニメーションひいては人生の世界観の意味づけと捉えるかは……人によると思う。
考察をしたい!という人はあらゆる部分に意味を見出せると思う。
作品の感想については、以上です。
以下は個人的な体験と、それに基づいて自分が予想していること。
======
(↓この文章は人間が嫌いな人(僕)が書いています)
この映画で「真人が自身の不正を認めることが正しい」とか「誠実な行いだ」として、それを教育者が子どもに押し付けるのではと勝手に懸念した。
駿さんは昔から、子どもは本人の思うようにあるがままにいることがよいことだ、と考えていた気がする。それが現実社会でどうなるかはともかく、子どもを描くときはそういう部分を意識していたのではないか……と思う。個人的には。
===
(以前書いたかもしれないが)小学校4年位の時『千と千尋の神隠し』が公開された。僕はゆとり世代で、母が保護者会でもらってきた資料に『千と千尋の神隠し』と「生きる力」という言葉がプリントされていた。
マスコミが大々的に「生きる力」という単語を取り上げていたのか、その印象は僕にとって「ゆとり教育=生きる力を育てる教育方針」として残っていった。
先生はワークスペース(なんか広い廊下以上ホール以下みたいな場所)に僕らの学年を集合させ、「お前たちはやれと言われたことしかやっていない。やれと言われなくても自分から動ける人間になれ」と言った。
言われたことをやっているいい子、だけでは駄目なのか…多分これが「生きる力」を言ってるのかな、と当時は思った。
(もし子どもたちが良かれと思ってやった何割かが教師の意図しないものであっても、ちゃんと自分から動いたんだなと捉えてもらえるのかは謎。)
===
申し訳ないのだが、当時から千尋を見ていると「正しい成長をした同世代の子、大人に歓迎され信頼される子」という印象が抜けない。
生存バイアスというか、彼女は「生き延びる側」で、選ばれた子なんだと思った。
ちょうどこのくらいの年齢から、自分は「選ばれない側の人間」だろう、物語の主人公にはなりえないのだろうという諦めもあったかもしれない。
僕は豚の群れを見て、ここには両親がいない、と見破ることはできるのか。
むしろ大人の言うことをおとなしく聞いて、自らも豚になるのではないか。
今でも自信がないし、その程度の価値の人間だったと感じている。
===
今回の『君たちはどう生きるか』というタイトルから、僕は「生きる力」の件を思い出したのもあり、忌避感があった。
一応30年生きた人間(碌な大人ではない)として真人を見ると、
マスコミや教育者ではなく「駿さんがイメージした」千尋の成長とはこういうものだったのかもしれない、と思った。
教育世界がジブリ作品を持ち出す時、千と千尋の生きる力を「自立」と解釈するとか、トトロやポニョだと「子どもが新しい視点と世界を獲得する」成長の物語とか、
子どもは経験を経て「外界から与えられた力」でこう成長した、と喧伝していると私は睨んでいる。
だからあれをしましょうねこれをしましょうね(自主的取り組み)(半ば強制)
と繋がる。
けれども僕が思うに、駿さんは
「普段は社会によって抑圧されている、本人の内なるエネルギー」であったり「本人自身の眼で選び取る力」であったり、それらは元々子どもが持っているもので、
それを開放する場所をついに見つける話……を描きたいのではと思った。
これは、僕個人のエゴな視点だけども。
そんな感じです。