壁打ち

感想、考察、日記、メモ等

映画『ミッドサマー』感想

『ミッドサマー』を観た。(2023.7.18)

 

気になってはいたものの、SNSで予想以上にバズったのでほとぼりが冷めるまで放置していたのだ。(天邪鬼)

 

自分好みの映画で、美しかったし感性や価値観の近さを感じてよかった。

(正直に褒めれば褒めるほど映画の内容的に人間性が疑われる気がするので、他の人と感想を共有する時には興奮しすぎないように…慎重にしなければと思った。)

 

こういう「自分に近い/遠い」という尺度で良さを語るのは、あまりよくないなと客観的には思う。でも僕はやはり、自分と似た世界の見方をしている人たちを探し、作品を観たり聴いたりすることで感覚を共有しあうような体験がしたい、と思ってしまう。

 

 

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ミッドサマーは、主人公の女子大生ダニーがどのような環境で救われるのか、という模索の話なのかと個人的には思った。

そして、現代社会的価値観(多少の差異はあれど、世界共通的に一般化されている「幸せ」「理性」「道徳」等)は必ずしも、全ての人を救う訳ではない、という意味合いを含んでいるのでは……と感じた。

 

つまり、ダニーは家族や友人、恋人に囲まれた環境では救われない人間のうちの一人だった、ということ。

 

 

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「静かにすること、他人の邪魔をしないこと」は現代社会的というか、理論的世界においては重視されがちだと思う。親しい仲ならともかく、他者の領域を犯さない。

 

対して、ホルガ村では感情をあらわにすることそのもので非難されることが少ない(かもしれない)。ある者が泣けば共に泣き、怒れば共に怒り、喜べば共に喜ぶ。

そして、外部の人間の非礼や、感情を抑えきれなかった者、泣いている赤子に対して、個人そのものを否定しない。

「感情をあらわにしている者を落ち着かせ、なだめる」役と「誰かに非があった場合、理由を含め説明する」役に村人が分かれ、調和を取り戻す。

 

 

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「外部の人間」には訳の分からない、不気味なコミュニティにも見えるかもしれない。

しかしこのホルガ村独自の人の繋がりは、ダニーに居場所を与えることになる。

 

 

ダニーが彼氏の不貞(?)を目撃してしまい慟哭している時、村人も共に叫び声を上げるシーンが印象的で、決定的なシーンだったと思う。(破局という意味もあるが)

彼女は村人の制止を無視して花冠を脱ぎ部屋を覗いてしまう。この行為で村からの信頼が損なわれたと(個人的には)ハラハラしたが、ルールに従わない彼女を諫めるのでもなく、傷ついたダニーを村人は支え、共に嘆いた。

 

ダニーの悲しみを「”信頼できる他人”として分け合う」のではなく、よりスピリチュアルに「”わが身のように”共鳴する」、彼女を取り囲みながら呼応するように叫ぶ女性たちこそが、ダニーを癒すのではないか。

血の繋がりではなく、共鳴的な行動を共にすることで村は彼女を、彼女は村を受け入れたのではないだろうか。

 

 

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ホルガ村的な共鳴行動が、現代社会で汎用的に悩みを抱える者を救うのか?というのは、NOであると思う。

 

(僕は医者じゃないが)それは精神医学的には多分難しい問題で、悩みを抱える人と全てを共有することが救いにはならない場合が多い。共倒れになったりかえって本人を苦しめたり。

なので、薬物治療や専門家(カウンセラー)との対話による治療が主だろう。それは精神医学が長年の研究を通して確立した「理論的な方法」だ。

 

…だけれども。真っ当で論理的な方法が「全て」を救う約束はできない。それは確実に確率を高めるが、100%ではない(と僕個人は思う。そもそも病を抱える人と巡り合う人々の相性自体、ランダム性が高いのだ)。

 

ダニーは(双極と言われていた)妹を救うために心理学を始めたのかもしれないし、それは感情に訴えたり民間療法を手当たり次第試したりするよりは、真っ当で論理的なアプローチかもしれない。

だがしかし、家族の死が無かったとして、将来的に彼女が妹と両親を救うことに成功したかどうかは確実ではない。

 

 

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彼女は不安定な妹といまいち身の入っていない彼氏という、大切だけど脆い関係に「理性を持って」対処しようとした。

ダニーは心理学で病理そのものには詳しくなっても、そういう「理性的であること」に固執してしまうタイプだったのかもしれない。

自己コントロールについてよく学び、実践しているんだと思う。相手に合わせようとしたり、マイナスな感情を打ち消したりする時の切替/リセットが異様に速い。

その理性的行動は、ダニー自身の感情を犠牲にして成り立っている。

 

 

そんな彼女が家族の死とホルガ村への訪問により、現実と夢を行き来するような不安定感に晒される。夏至祭りを体験することで、理性とされていたものがぼやけていく。

そもそも彼女が「あるべき」と思っていた在り方は、何だったのか?それは彼女を幸せにしてくれるのか?

 

 

…………

お互いを思いやり、本音を打ち明け、時に議論し、いいバランスで支え合うのが良きパートナー。しかし、現実にはそういう形で安定した関係を築けない人々がいる。主人公とその彼氏のように。

それは弱い彼ら自身が悪いのではなく、上記のような人間関係が正しい、そうあるべきと(特にダニーが)思い込んでいるからではないのか?

 

確かに精神的に安定していて、相手の気持ちを察したり思いやったりする心の余裕があり、互いに天秤が釣り合うように愛情や負担を与えあっているのは、とてもいいことだと思う。

けれどもそれは「現代社会で健全とされるパートナーの在り方の一つ」であり、古今東西100点満点の正解という訳ではない。

 

ダニーの目指した最良の対人関係は、彼女のみではどうにもならないことを根気で独り取り繕うように保っていたようなものだと思う。

 

 

 

ダニーが最終的に下した決断と、おそらくはその村で続き、終えるであろう人生は、見方によっては「今までいた現代社会に戻れなかったバッドエンド」に見えるかもしれない。

けれども彼女は不安を抱え続けながらも、それに「共鳴」してくれる村の人々がいる。彼女の最期がどうであろうと、僕個人は彼女自身の安寧の地を見つけられたのだと思っている。

 

彼女は「現代社会流に生きる」のが、肌に合わなかったのだ、おそらく。

 

 

 

そんな感じです。