壁打ち

感想、考察、日記、メモ等

20261025(『The Talos Principle』エンディング感想)

DLC以外の実績は一通り取れたのと、真エンド?Cエンドを見て思った事の追記。

※ネタバレ含みます

 

前記事

blue-442385.hateblo.jp

 

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その前にDLC(Road to Gehenna)を始めたので現状の感想。

エロヒムの箱庭から放逐された(隔離空間に捕らわれた?)者たちをUrielが助けに行く話ですが、そのゲヘナ(放逐された者が集まる場所)が思いの他、ナード的なカジュアル空間でよかった。

システムから見捨てられたのだろうという予測が感覚的に共有されており、しかし一致団結して何処かに向かうといった目標も無く、そういった集まりが創作や思索に向かうだろうというのは面白い。

手元にあるのは物理的な機械の肉体(能動的な保存の手段は特になし)と建造物と膨大な情報の断片、という環境においては確かに、思考するという行為に娯楽が見いだされるものなのかも知れない。

記号で表現されたシンプルな絵画を「可愛らしい」と思うのは人間の驕りだろうか?

 

パズルは相変わらず難しいです。

(しかしパズルジャンルに特有なのか、攻略サイトにもただ解答を書くのではなく段階的なヒントを出してくれるページが多い。自分で解きたいという感覚を失わせないような攻略を提供する、というコミュニティの優しさ及び共通認識を感じる……)

 

D0Gが居て嬉しい。

D0Gの後継者がShepherd(シェパード)なのは犬繋がりだろうと思ってそこで調べる事も無かったのだが、

Shepherdには羊飼いという意味もある事を考察で知り(Sheepの後継者でもあるという説)、存在感の強かったSheepは何処に行ったのか?という問いの答えが分かったような気がした。

(明確に二元論的でもないが最終的に対峙するのがSamsaraとShepherdで、Sheepの位置付けはよく分からなかったから)

 

Sam(v1.1.0000)は崩壊した事が推測されるエピタフQRコードがあったが、彼もゲヘナに来ていて無事?だったので安心した。

全てのチャイルドプログラムの先祖であるとされている1w/Faithはv10 seriesとあるので、Samは本当に人間の被験者だったのかもしれないTRUE/FALSEで会話している事から、人工知能以前の簡素な電子計算機だったのかもしれない(憶測)

Samasaraとの関連性も感じるが、1w/Faithの子孫が@、Samasara、Sheepなので

Samはプロトタイプな原初の素朴な人格で皆の父祖、Samsaraはより洗練された転生(及び虚無)思考の末裔のように感じる。

 

 

ーーーーーー

改めて真エンド、「使徒」エンドについて

やってみるとこれがベストなエンディングであるという意味ではない、というのが感じられた。

条件はゲームとしての一般的真エンドに要求されるような内容(全てのパズルを解く)だけれども、そこが「正しい、最も適切である」とは断言されない。

 

全てのパズルを解くという事は

システムに友好的であり、従順であり、なおかつ「パズルを解く子孫の手助けをしたいという方向性に特化した」主体性があるという事を示す。

つまり使徒となるのが最もふさわしい。

人間の自己矛盾や好奇心がやや欠けているという部分からも、人間より使徒(物語におけるロールを忠実にこなす存在)に近いのかも知れない。

 

 

自分が最初に、自分の感覚でプレイして到達したのは「持ち帰る(Take It With You)」エンドだった。

ミルトンの疑念を内面化しつつ起動するというものだが、最初は正直どういう意味か分からなかった。

(”蛇と取引をする”という事は完全な裏切り行為を行う・システムを破壊するという意味だと思ったので、

ゴールに着いたら急に口調が穏やかになったミルトンが現れて融合する=蛇との取引、というのがピンときていなかった)

ミルトンとの取引も塔に来たいなら来れば?という感覚だったので(進んでシステム破壊を行うつもりは無いが、蛇という一つの人格を持つ存在を能動的に排斥しようという気にもならない)始めは驚いたけれども、後から思い返すと納得のいく終わり方だった。

個人的には自分が疑り深い性格だという自覚があるし……

 

アレックスのボイスメモを聞く限り、完全な猜疑心ではないにせよ疑いや疑問を抱く事は重要と言われているので(人工的な人格を想定するにあたり、そこまで思い至るのは凄いと思う)

ミルトンの存在もまた(意図的に仕組んだのかは不明だが)必要な要素という事ではないだろうか。

(実際ライブラリにあらゆる思想や人格を積み込んだ場合、全てが健全で豊かで前向きな人格が形成されるわけではないだろうと思う。)

 

 

使徒エンドで最後に墓碑銘(一言)を刻むのだが、これも今までの選択肢によって内容が変わっていたりするんだろうか?

(いくつかネガティブな選択肢があったので、二周目だからとかなり反社会的な回答を選んだせいかも……)

 

使徒エンドは自分では辿り着けないし辿り着かないであろう結末だが、

水かノイズか分からない音に包まれながら地下に”埋葬”されるのもまた一つの美しさがあると思った。

 

 

 

以上です。

20261024(社会の効率化と自己の活動限界に折り合いをつける)

健全な生物は、生命の危機と目的がぶつかった場合、大体は

生命の保持に努めると思う(例外有)。

人間も仕事をして疲れれば寝落ちしてしまったり、ケアレスミスが生じて中断すべきという判断が下る。

これは正常にブレーキがはたらいている状態で、死ぬまで正常なブレーキを守り切れた人間にはそうでない人間が馬鹿のように見えるだろうか?

 

学校の予鈴に合わせた生活で、僕は何度も緊張と恐怖の中時間に追われていた。

給食で苦手な牛乳を飲み干した記憶、実技科目で1ステップずつ進む工程に遅れまいとした記憶、体育の授業前後の着替えが一番憂鬱であった記憶、等。

自分は鈍臭くてマイペース(悪い意味)でいつも追い付くのに必死だ、という意識は

思いのほか周囲にはそう見えないらしく、幸か不幸か”健全”の枠組みの中になんとか収まっていたように思う。

”自分は普通の健常な人間だ”という枠組みにしがみつくうちに、自己保持の為のブレーキを見失ったのではないかと今では思う。

 

(無論学校だけではない。見捨てられない為?に両親の前でもよき子を演じていたので、

じっとしている・飲み物やお菓子を要求しない・「でもだって/分かってるから」を言わない、という辺りは四六時中最大限徹底していた。

もしかしたら許されるかものワンチャンスや交渉は上手くいくはずが無かった。親は絶対に謝らないし、自分の決めごとを曲げて僕のアイデアや意見を採用する事は無かった。)

 

自己すらも失ってしまったのかも知れない。自分はたまに、自由な時間でも自分が何を欲しているのか分からなくなる。

 

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仕事。

慣れた作業なら

「100%の集中力で効率を常に意識して緊張しながら作業する」状態と

「効率を気にせず目の前のものを淡々とある程度リラックスして作業する」状態で

それほど差は出ない気がする。

(ただしあくまでも慣れた作業という前提であり、「効率を気にせず」も無意識に

経験則で、事故の少ない・効率の良い最低限の行動ルールは確立されているからこそだ)

 

 

頻繁に部署異動があったり仕事を変えたりしていると、「変わる事」そのものへのストレスに加えて

「100%の集中力で効率を常に意識して緊張しながら作業する」状態が選択され続ける事になる。

よって心身の均衡を保てなかったり、突飛で的外れな行動を取りはじめる。

(因みにどれだけスムーズに動けていても「突飛で的外れな行動を取る瞬間」がある。

ゲシュタルト崩壊という、例えば同じ文字を書き続けているとどこかで字が書けなくなる瞬間が生じるが、それに似ている。

重要なのは「突飛で的外れな行動」をとった後の軌道修正をいかにスムーズに行うかであり、

緊張状態が高まっていると硬直して手が止まったり、優先順位の低い的外れルートの作業を終えるまで頑固に執着してしまったりする)

 

 

一旦落ち着く事が大事なのだと思うが、ここで自分が強く意識するのは「人の目」である。

過去の急かされた記憶が強まり、作業効率を見られている、今にも指摘されるかもしれないという緊張状態が維持されてしまうと

行動の軌道修正が遅れる要因になる。

他人を気にするなと要請しつつ一方で過去の反芻が始まってしまう。

周囲の健全な思考の人間には理解できないかも知れないが、私はノロノロ時間を気にせず悠長な気分で作業している訳ではない。

(しかし、わざわざその思考まで踏み入って聞いてくれる人などいないのだ。)

 

ーーーーーー

ここで、「周囲の健全な思考の人間には理解できないだろう」という不信がある。

見張られている、相手が機嫌を損ねるだろうと考えるのも職場、いや人間に対する全体的な不信だと思う。

(もし信頼関係が築けているのなら、その場その場の作業たった1つで人格評定をコロコロ変える訳がない。

また怠惰を疑われたなら、正当な理由の説明をする・協力を求める・自分はこの作業苦手みたいですと冗談を言って間を繋ぐ等々、相手へのアプローチはある。

自分がそこで押し黙って、とにかく一人で作業に全集中する事で巻き返そうとしてしまうのは、

理屈ではなく気質(と育ち)の問題であるとしか言えないのだろう。)

 

これに対する答えがまだ見つからない。

信頼できる少人数と仕事が出来たならいいのだろうが、家族知人にすら押し黙ってやり過ごしている事が多い自分には現実的ではない。

結局短期間で仕事や環境を変えて、壊れたら休んで修復して、また他の場所で

というやり方でしか生きていけないのかもしれない。

 

 

 

 

 

以上です。

20261022(箱庭、ゲームの自己投影)

ゲームの自己投影にしか真の(真のとは?)自己価値を見出せない

というのはゲーム依存症だと言われるかもしれないし、実際そうだと思うが

 

自分の気分の変調や他者・現象に足を引っ張られ、こつこつ努力したり勉強して積み上げてきたものを突き崩されたりして心が折れた末の選択で

 

辞めたいけど辞められないというよりは、自らを最も純粋に肯定できる場所と言えてしまう

 

ーーー

「自分の気分の変調や他者・現象に」は厳密に言えば違っていて(他責と安易に言われたくない故の予防線的な言い方で)

 

・自然現象やその時の運、偶然、他者との気質の折り合いがつかなかった

→仕方ない、そういう廻り合わせだったのだと納得できる

 

・他者の故意の悪意に晒される、

社会構造上やむを得ないとされつつ優先順位の低い存在として扱われる(異動、特に個人のキャリアを破壊しておきながら会社に”微々たる、その場限りの間に合わせ人員”として配置される事)、

社会構造上やむを得ない善意の行動に個人的なタダ乗りをされる(仕事を円滑に進める上で臨時的にこちらが処理したものを受け、当然の様に線引きなく仕事を盛られる)

→その場その場は許せるが、それが積み重なって不信感に繋がり最終的に関係の全てを破壊する(たとえ、自分が一番損をする事になってでも)

 

・自分の気分の変調

→人並みの自己コントロールが出来ない自分が許せない。また認知的行動改善やマインドフルネスといった様な、一般的な自己管理とされる方法は一通り試したのに上手くいかない無力感、社会への「自己管理」を当然のものとして押し付けられる怒り

 

 

ーーー

原因や理由は色々あるのだが、

それら全てを立てる事も出来ず、全てを立てられないのを受け入れる楽観や寛容な精神も諦めてやり繰りする器用さも持ち合わせず

自分の外見、内面に大小様々な悩みと、数十年間かけて対処しようとして失敗したという不毛さに幻滅して

 

とにかく、現実の世界が許せなくなってしまったので、

自分の身や周囲の繋がりを失ったとしてもそれらを放棄してしまうのが最も安心できるという所まで来てしまった。

 

 

架空の箱庭で、自分の限られたロールを演じる。

ゲームには大なり小なりシナリオがあり、仕様があり、主人公には役割がある。箱庭の外には絶対に出られないが、箱庭の中では全てが設計された役割に沿った動きをする。現実世界の様に突然富士登山を目指すとか、犯罪を犯すとか、人を助けるといった無数の取捨選択は出来ない。

その代わり、決められたいくつかの道を粛々と歩む。人工的に設計された道をなぞるだけなのは意味が無いかもしれないが、既に現実世界の自分の人生にも意味が無いので同じだ。

 

パズルには解法があり、敵は理論上倒せる。

自分にはそのスキルが無くとも、他のプレイヤーがそれを成し遂げているのを見て、希望があると首肯できる。有限の中に無限を見出すような事だが、同じゲームでも1pxのズレも無く誰かと同じ挙動をする事はまずない。

導き出される結果やゴールで流れるムービーは同じでも、プレイヤーの踏んだステップや遠回りはそれぞれにしか生み出されない。

 

パズルゲームで答えを見た時の敗北感はあるが、実際にそれを自分の手を動かして再現してみる事にも自分は微小ながら価値を見出している。

 

 

ーーー

この世は僕には広すぎたのだとよく思う。虫になりたかった、

大きく複雑な世界で自己矛盾に悩み他の個体と目配せし合う世の中で窮屈を感じるくらいなら、

目の前の食べ物、天敵のみを認識して(無論、虫には虫の葛藤や懊悩があるのかもしれないが)生まれた瞬間に死ぬような世界だとしても、自分で自分を疑うような難儀な思考から解放されたかった。

 

随分わがままな願いだとは思うけれど。

 

ただちょっと上手くいかないだけで、そこまで思いつめる?

 

”ただちょっと”?

ただちょっと、を一生涯何をしても対処できず無駄だったと思い知らされたので、一般人類の”ただちょっと”が自分には致命的な障壁だったのだと言える。

虚無に陥り、自分のしたい事さえもよく分からなくなってしまった程度には。

”その程度”で。

 

 

ーーー

今の自分は例えるなら文鎮で、レジャーシートを押さえる重石で、

せめて家族に不快な思いをさせない様に、他者の人生に埋まった自分の枠を

自死という不名誉な形でお返ししない様にする事が最低限の義理だと考えている。

縁が切れそうな相手とは今後は少しずつ連絡を控えていこうと思ってもいる。

 

置物になりながら余生を消化する間、脳をどうにかして自己破壊から遠ざけるには

やはり箱庭の中に自己を投じるというのが一番安心感があると気付いた。

今後ゲームが出来ない体になれば、書物や音楽からでも自己を見出す事は出来ると思う(本当は、能動的アクションのとれる・相互作用的という意味でゲームが一番適していると感じるのだが)。

 

 

セキュリティ危機があり、情勢不安があり、いつ無くなるかも分からないが、

それは箱庭も現実も同じなのだと思う。自分にとっては。

 

 

 

以上です。

20261015(きょうだいが生まれる頃の記憶)

昔の事ばかり復讐の様に思い出してしまう。

 

ーーー

兄弟が生まれた後、入院中の母親に会って「お腹が大きくなくなったでしょ」と両親に微笑まれながら母のお腹を触らせられた記憶がある。

僕は正直極端にお腹の大きさが変わったかよく分からなくて、でもそんな事は言わない方が良いのだと黙っている事しかできなかった。

嬉しいとも悲しいとも感じず、ぼんやりとした事実しか分からなかった。両親は笑っていた。

 

もしかしたら自分は妊娠中の母から隔離されて暮らしていたのではないかと思う。

この考えに至った時は親が不機嫌になるかもしれないので聞けなかった。

 

 

僕は妊婦恐怖症、というより「妊婦さんに頼まれれば殺人もしなければいけないように思う」くらい存在の優先順位を過剰に高位に置いている節がある。

お前は絶対に妊婦に近づいてはならない、お前の存在は必ず母親と胎児に危害を加えるし不幸な事になるという強迫観念がある。

僕はその理由を知らない。ただそう思う。

 

お互い年を取り、以前より穏やかになった両親に事実を聞いても自分は今更どうにもならない。

多分死ぬまで自分の中でわだかまりつづけるのだと思う。

 

 

ーーー

弟が生まれる前の記憶がほとんど無い。

統計として上の子が幼少期の記憶を失う事は多いらしい(この話をすると親は不機嫌になる)。

 

でも母に会いたいと言っても会わせて貰えない事を理解していた記憶がある辺り、

3才頃からもう既に「ワガママは言っても仕方ないものだ」とは思っていたらしい。

(勿論人並みに他のワガママは言っていただろうが、何となく”言っても通らないライン”を知っていたという意味で)

 

 

上の子がきょうだいを持つ準備が必要です、という事で色々親は試行錯誤すると思う。

どうにもならない距離感はあると思うし母体優先な事も、生まれて以降のきょうだいの関係性の方が大切にも思う。

 

でもきょうだいが生まれる事はほほえましい事なんだよ、というのを、自分は「求められて」いたという感覚は一生消えないし

親の自己満足という側面も知っていて欲しいと思う。

子どもだからよく分かっていないうちに倫理道徳を植え付ける感覚は無意味だ。既に当時の僕は自分の感覚と求められている姿が乖離しているのを感じていた。

(それを言葉として表現するどころか自覚すらもしていなかったが、

自分の気持ちが接続していないものを接ぎ合わせるよう求められている”感じ”しか残っていないのを覚えている)

 

おそらくそういう過程があった方が良いとされている(実際、それで心構えができる子どもが多くいる)のも承知しているが……

 

(自分はもう結婚も子どもを持つこともしないと決めている。自分が親になれば子どもは不幸になるし、この世の中でこれ以上不幸な人間を生じさせない、自分の子なる存在に社会から搾取させてたまるかと考えている)

 

 

ーーー

弟は自分の一番の理解者で、この世で一番信頼している人間だ。

自分が出来なかった人生の物語をきちんと歩いていて、自分が家族に居た事で少しでも弟の助けになっていたなら嬉しい。

上記の文章を読んでいればまるで嘘のように思われるかもしれないが、本当に心から弟の事が好きなのだ。(多分、両親よりも)

 

僕が仮に自死したとして、弟だけが気がかりだ。

両親は僕にある程度他者性を見出しているし、後追いはしないだろうと思う。

奇数になる家族のバランスに耐えられるのだろうか。

 

また、戸川純さんの妹さんが亡くなられた当時のニュースを見ていて、

僕もまたその可能性(自分より先に弟を亡くしてしまう)がある事に恐怖している。

彼は生きる事に熱心なので自死を選ぶ事は無いと思うが、熱心ゆえに何かのきっかけが訪れてしまった時の事を恐れている。

 

 

ーーー

昔にタイムスリップしたところで自分は幼い自分を救えないし、若い両親の事を理解する事も出来ない。

 

 

 

だから誰にも言えないし、ずっと寂しいままです。

ゲーム『The Talos Principle』感想

取り敢えずエンディング2種類を回収したので書きます。

(実績埋めの為にもう一周はする予定)

 

本当はバラバラになっているテキストを並び替えて、全体像を把握してから書きたいとも思ったが

哲学的テーマや英語翻訳の観点から全貌を把握するには時間がかかってしまうので、

自分が一旦クリアして感じた事を先に書いておいた方がいいなと思い……

 

なので世界観の解釈や理解が追い付いていない(特に専門用語や慣用句)ままこの記事を書いています、その点ご了承ください。

 

 

ゲームジャンル、システムについて

『Portal』というゲームがある。僕は2しかプレイしていませんが……

Talosが影響を受けた作品と(多分)明言されていて、ファーストパーソン(一人称視点)でシンプルな箱、スイッチ等のオブジェクトを使用し解くパズルやSF的な世界観が近いと感じた。

 

Talosはそれに加えて廃墟を徘徊するような感覚で風景が構築されていて個人的にはかなり好みだった。

(半面、小物のオブジェクトは強調表示されず控えめに置いてあるので見つけるのに苦労した人もいると思う。

自分も探索に関しては自信があるがかなり見落としたし、”クリアするだけ”なら無くてもいいが見つけられなかった悔しさがある。必須ではないのだが悔しい。この問題?については後述)

 

また、多くの古代文明の歴史・哲学・神話について語られていてテクノロジーとの対比がなされているのだが、ただ安易なアイデアとして比較対照されているのでなく

制作陣がそれら古代文明(ギリシャ、エジプト、ローマ)に関してある程度の理解や知識があってこその一貫性を感じた。

(この辺りは自分が日本人だからそう感じるだけで、もしかしたら海外では義務教育で自然と通過する程度の濃度かもしれないのであしからず)

 

またQRコードで他のNPCの言葉を読み込むことができるのだが、これもまた

「今ここに」一人きりの寂しさと「どこかで誰かが同じ問題に行き着いた」一人ではないという心強さ両方を感じられて良かった。

 

 

個人的感想(ゲーム内での主人公(私)の在り方)

少し前の記事の『carcass』や他の記事でも頻繁に触れているが、

自分は主人公あるいはその作品内の住人としてゲーム内に存在する余地があるとそのゲームが好きになってしまう。

 

これは一長一短で、例えば偉人伝や主人公が明確に固有の人物像を持っている場合は没入できないというパターンが出て来ることもある。

『OFF』のバッターや『SEKIRO』の狼は人物像そのものが好ましいのでいいとして、自分がその世界に割り込まないと楽しくないというのは極端すぎるので

自分が没入する余地のないゲームは本を読んだり映画を鑑賞するような、”外側のものを眺める”体験として捉えている。

 

Talosに関しては、どうしても解けないパズルがあり正解を見てしまったので

その時点で自分は主人公としての位置を失って(捨てて)しまった事になる。

(勿論粘ってもいいのだが、積みゲーが他にもある事や自分の精神的負荷、自責的感情を鑑みて今回は甘んじて先人の知恵を借りる事にした。

パズルの難易度はものによっては玄人向けだったので、結果的に賢明な選択だったと思う)

ストーリーのネタバレはあまり気にしなくとも、”攻略法/解法”は自分で試行錯誤して見つけたいという部分を破ってしまった。

これに関してはやや落ち込んだものの、前述の”外側のものを眺める”体験に気持ちを切り替えてエンディングまで進んだ。

自分はこの世界において、テストに脱落した無数のAIの一人だったのだと思う。

 

QRコードの中にはNPCの脱落者(エピタフ/墓碑)の名前、死因、最後の言葉が記されたものもあり、そういった”データの死”としてのイメージができるのもセンチメンタルだった。

また「子孫プログラム(child programs)」として第一世代の個体(?)から始まり、そのプログラムを基として様々な選択肢を選んだ個体が現れるのも好きな要素だ。

自分は家系図のように世代が連なる話が好きなのだが(ジョジョ、『ベルカ、吠えないのか?』等)確かにバージョンを更新していくソフトのナンバリングもそのような”血統”に近いのかもしれない。

QRコードは永続性のあるものでなく消失、出現するらしく、上の世代が書き残した言葉に新しい世代が回答を残しているのも面白かった。

全ての始まりは皆同じ個体(プログラム)からスタートしているのだが、個々の気質が分岐していくことで意見の違いや同調が生じていて、

ある意味で一個体に内在する多面的なアイデンティティのようでもある。

 

きっと最終局面では誰もがThe Shepherdニキ~!!と思った事だろう。

Samsaraについては少しムッときたものの、道中に見かけた思考としては自分に近い物を感じられたし(あくまでも世界に従順であれという精神)

最終局面で、この二人は対を成す存在として成立したんだなと感じた。

 

 

パズルゲーは何をゴールとするか

久々にアクションではなくパズル・謎解きゲームをプレイして思ったのが、

何をゴールとするかという部分において、パズルゲームを好む層は一般的なゲーマーとは異なる嗜好をしているのではなかろうかという事だった。

 

自分は色々なジャンルをとっかえひっかえして飽きそうになったらまた別のジャンルに……というように節操が無いのだが、

「実績(トロフィー)は狙えれば全部揃える」「基本ソロプレイ、マルチ抜き」という部分についてはジャンルに関係無く共通している。

そして「自分で試行錯誤してみて、どうしても無理なら一旦攻略情報を調べてみる」というのも共通なのだが、パズルゲーに関してこの点は難しく

「調べたら自己の体験はほぼ失われる」と感じてしまう。プライドが高いから

年を取ってからズル?をする事、手を抜く事にかなり抵抗は薄れてきたのでマシになった方である。

 

なのでTalosに関しては答えを見てしまったのだが、

これは「個々のパズルを解く」事よりも「エンディングまで到達する」事を目的としているからであり、パズル=通過点という思考をしているからだ。

これに対して、恐らくパズルゲーを主体とする一定の層は「エンディングまで到達する」事よりも「とにかく発見し、パズルに向き合い、解いてみる」事の方が重要だと考えて楽しめているのではなかろうか……と(勝手に)思っている。

だからこそイースターエッグや意外な解き方を発見する事ができるし、既にこの世にそのパズルを解いた人が居たとしても自力で解けたのなら”体験”は目減りしないと考える事ができるのではないだろうか。

 

個人的には当たり判定もパズルも理不尽度は高くないように思うが、

死角やエリア範囲外ギリギリの場所、バグじみた場所に置いてあるものも当然のようにある。

イースターエッグと真エンドの条件となる星型の印章を解くパーツやヒントが混在して憤っている意見もあったが、凄くよく分かる。

しかしそれは「ゲームは筋の通ったヒントを置いておくものであり、イースターエッグはただの飾り、パズルという鍵を解除して真エンドに到達する事が”ゴール”である」というゲーム思想に基づいているような気がする。

パズルは鍵であり、求めているものへのきっかけであるが、それでしかない。

 

これに対してパズル勢はそもそも、

真エンドを見たからより造詣が深まる、徳が高くなる、よりやり込んでいて凄い……という観点でゲームをプレイしていないのではないかと思った。

(これは自分が出来ない考え方で、目の前の課題に誠実に向き合うという点でこれが出来る人を尊敬する。パズルゲームで答えを見るというのは映画でラスト5分を観て終わるみたいなものだと心の奥では思っているので……)

 

 

 

昨今のAI事情と”メンヘラAI”

昨今のAI(ここではチャットボット、対話型AIに限定して話します)に関して自分がぼんやりと思うのは、

もしかしたら今後PotalやTalosに出て来るようなやけに人間味のある(嫌味や皮肉を使い、人間の矛盾を突き、時には問い詰めるような)AIが成立してしまうのではないだろうかという事である。

 

一般人にも対話型AIとして普及しはじめた頃、チャットの口調は簡素だった。

現在(2026年下半期)では(自分はあまり使った事が無いので聞き伝えだが)

使用者の希望に合わせて口調や男性/女性ボイスを使い分け、精神的なケアや協力する”仕草”をやけに取り入れる方向でシフトしているように思う。

Googleも単なる検索結果のまとめでは無く、検索内容に応じて「どのような情報を必要としていますか?」というような双方向的問いかけをしてくるようになった。

これはきっと利用者にそう望まれたから、そして運用者にそのようにして人間の回答を引き出し、学習させるために意図しているからである。

無機質で中立的で客観的だと感じるかもしれないが、AIの出す解はともすれば簡単に入力量でひっくり返せてしまえると個人的には思う。

 

話を戻して、自分がTalosで辟易した?のは天の声エロヒム(Elohim、神)とミルトン(Milton、蛇)がやけに偏執的で所謂”メンヘラ”だった点。

そしてこの”メンヘラ”状態は『Portal』でのGLaDOS(人間をテストしていた人工知能)を彷彿とさせた。

Portal2プレイ時はあまりストーリーをきちんと理解できていた訳では無いが、やや神経質で過保護でヒステリックな母親のような印象を抱いた。

Talos制作陣がそこを寄せたのかどうかは不明だが、

「自動計算器としてのデジタルな命令」と「人間と対話する際のアナログ(に見える、実際は人間の反応に対するフローがあるんだろうが)な応対」が矛盾を引き起こすのではないか……と思わなくもない。

 

人類が滅びてなお試行を繰り返す、そうでありながら

まるで人間の脳を電子的に再現したような”精神”?”意識”?を持ち得たなら、

きっとノイローゼになってしまうだろう。

 

人類が滅びてなお駆動する……といえばニーアオートマタもそうだが、

遺される側もまた苦悩するという部分では答えが一貫しているように思う。

(または、人工知能を突き詰めればAIも苦悩する事になるだろうと人間が思いたいだけなのだろうか)

 

 

一人称視点は画面酔いまでいかなくとも疲れるので長時間考えられないのが辛かったが、テーマも相まって面白かったのでDLCと2もSteamセールで買いました。

歯応えのあるパズルが好きなら是非(Talos初代はコンプリート版?リマスター版?が出てるのでそこだけご注意)

 

 

 

 

 

以上です。

 

追記:エンド回収しました

blue-442385.hateblo.jp

20260925(末の子供の幻肢痛)

ゲームの主人公は時に、「最も若く新しいバージョンの一つ」とされる。

 

ブラスフェマスの悔悟者の様に。

ブラッドボーンの狩人、エルデンリングの褪せ人の様に。

今プレイしている『The Talos Principle』の人工知能?もまた、そうであると思える。

 

ゲームの中でなら、私は末の息子で居られる。

先人の記録を巡礼する様に謙虚に黙々と辿り、或いは思考してそれらから逸脱・離反し、

最終的には単なる一試行回数の一つとして終わる。

 

大きなシステムの一つに取り込まれる、膨大な紋様の一片になる事が

退屈ではなく、心穏やかに感じるようになったのは、

現実の自分の人生がもうどうしようも無い、報いようの無いものだ(≒私は特別な存在にはなり得ない)と諦めてしまったからかも知れない。

 

親の言いつけを守る子供の様に無垢で居たい。無害で幼い者として見守られ、何者かの力に守られながら箱庭の中で飼われるように在りたい。

 

 

自分の祖父母両親には皆兄姉が居たが、自分だけが長子であった。

具体的に強く兄姉が欲しいと感じた事がある訳ではない、現状にはとても満足しているが

自分の中には年長者に甘えたいがそれは永久に不在であるという、

幻肢痛に似た感覚がある気がする。

 

ゲームの中でなら、私は末の息子で居られる。

20260830(ゲーム『carcass』感想 他日記)

カニバリズム、蟲の要素を含むグロゴア系ホラーでありながら、何処か乾いた空気感漂うPCゲーム。

ポイント&クリックというジャンルだろうか、後述の私的な近況も相まっていい体験でした

 

『carcass』

toothandclaw.itch.io

 

無料でもDLできますし、任意の金額を支払う事も可能です。

 

ーーー

知ったきっかけはゲーム翻訳をしてくださってるこの方のチャンネルから。

人を選びそうなゲームではあるので動画を見てみてもいいかも知れない

youtu.be

 

英語自体はそこまで難しくないが世界観が独特なので、他の人が翻訳した文章が読めるのは大変助かります……(結構三人称を誤読してしまうので)

今の時代邦訳されているゲームも多いですが、好みのインディー系統は英語+αのみの場合も多く、

邦訳を残したり日本語化MODとか作ってくれる人には本当に頭が上がりません。

 

 

ーーー

※今回の感想については自分の心理的状況も多く影響しているので、雑多な感想になってしまいますがご容赦ください

 

というのも、個人的に謎解きパズルゲーくらいまでが自分のプレイしたくなる範疇で

よほど雰囲気が好みでないとこの系統の(ポイント&クリック、選択肢や成功失敗の分岐すらない体験型の)ゲームを手に取らないからです。

体感としてはHomesickが近い、あれも謎解きが入ってて廃墟ゲーだから自分の守備範囲にギリギリ入ったというくらい

 

 

何故ネットでプレイ動画を見られるのに、謎解きも無いのにこのゲームをやりたくなったのかというと、ひたすら単調かつ儀式めいていたからで

 

最近は「既プレイゲームのスコア詰め」と「未開拓ジャンルの練習(FPS系)」を並走してしまい、自分の至らなさを身に染みて感じてしまって

(FPSの操作感に慣れないから、自信のある高難易度タイトルで自己肯定感を保とうとしたのが裏目に出た)

無気力or意欲の空回りの精神状態が続き、かといって割り切って別ゲーに手を付ける気も起きず……という中で

 

スコアや”失敗”状態がそもそも存在しないゲーム、すなわちポイント&クリックは現状に最適なのではと思った次第です。

 

 

ーーー

ゲームに登場するのは

・プレイヤー(魔女に”子羊”と呼ばれている。何処かから連れて来られた?)

・魔女(上位存在っぽい黒い人影。”キチンの神”に仕えている?)

・軍人達(魔女を通じてキチンの神に願い事をする人間。生物兵器を所望)

・生贄(魔女から”被検体”及び”私の子供”と呼ばれる。おそらく人間から蟲へ成長)

・キチンの神(蟲の神?キチンとは昆虫の骨格を構成するキチン質と思われる)

 

人間があまり出てこないのが良かった。

プレイヤーと魔女の関係性はやや昔にTwitter創作で流行った「魔女集会で会いましょう(魔女が人間の少年を拾ってきて従者or供物にする)」を彷彿とさせるような関係性で、

魔女が人外めいておりながら弱音を吐くような部分もあり、その共依存めいた関係性を演じるのは嬉しかった。(個人的趣味)

 

※参考:個人的趣味について過去に詳記していた

blue-442385.hateblo.jp

 

主人公が人間か否かは判別できない(冒頭ムービーの白衣の司祭?なのかも知れない)が、死体の臓器を食べる→”幻視”した虫を捕まえて精髄を採取→生贄に精髄を投与

しているという点で、魔女の使い魔程度の能力を有しているらしい

(”幻視”や魔女の生贄から創造する力?はキチンの神に与えられたと思われるが、

魔女が自身を神の従僕とは定義せず、少なくとも人間よりは本質を知る者として振る舞うだけだと考えているような場面もあり

新人類、ニュータイプ、能力者的な位置付けの可能性もある。

不思議な階層構造が面白い)

 

 

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自分は  ベタに人間嫌いを名乗る訳では無いですが、

人混みに行く、人に見られる、同じ空間に居るのが苦痛に感じるようになり無職になったのをいいことに引き籠っている、最近はフィクションでも人間よりそうでないものの方が自分の興味を引く事が分かってきた。という状態です

人間のキャラクターを描くのが下手なのはそもそも人間をよく見ていないし、人間に興味が薄いからなのではないかと思い至ってもいる。好ましいと感じる時、恐らく僕は人間としてより”美しいかたち”として見ているのではないか。

 

 

単調な疑似労働としてPapers,Pleaseというゲームもあり、こちらはゲーム性もありつつ作業ゲーとしてのポテンシャルを信じて無職になるまで寝かせておいた(あまりにも労働過ぎるので働いてる時は楽しめなかった)のですが、

書類のチェック業務はともかく時間制限や小言を言う人々に向き合う、常にマイナスのデバフがかかる状態で作業という

その状況(ゲームのみでなく、ゲームから引き起こされる過去の不快な労働経験)自体が自分に向いてないと観念して、本格的に「ギブアップ」しました。

(初見時1つだけエンド回収済でコンプしたかったけれど、心理的負荷が厳しい)

これは決してゲームが悪い訳では無いので本当に悲しい。

 

上記のペパプリ挫折もあり、

今まであまりゲームとしての意義を見出せなかったポイント&クリックというジャンルに「儀式的作業の癒し」をやっと発見できたのだった。

 

 

自分は周回による素材回収や金策等が(それ自体がノルマ化すると嫌だが)一種の癒しになっており、例えば本編進行に行き詰まると素材回収や残機増やしの為の1-1エリア探索等で気を紛らわすのだが、

現在進行形でそういった土壌(プレイ中のゲーム)が無いと何も手に付かない虚無を過ごすことになる。

そういう時にごく短編の、成功や失敗の概念の無い単発ゲームというのは有難かった。

 

また既に動画でどのような作業をするのか把握した上で、儀式として体験したいと感じられる魅力があった。

自分の好みと合致したゲームを探すのは稀有でもあるので、今回は運が良かった(ポイント&クリックといえど、ハッピーな内容のゲームはあまりやる気になれない、難儀な趣味である)

 

 

 

労働が、いや生きるという事がこれほど儀式的で静かであれば、と思う日々です。