壁打ち

感想、考察、日記、メモ等

20230413(理想の死チュエーション、Bloodborne「ヤーナムの夜明け」エンド、戸川純『諦念プシガンガ』)

Bloodborneの「ヤーナムの夜明け」エンドが最高だったという話から……。

 

必要最低限の周回(バックアップデータを取って1周で全て取得しない方法)でトロコンしたいということで、エンド回収は難易度の高いものから順番に取得した。

ただ自分が何の前情報もなく、また自分の好みの選択肢を選ぶとするなら、ゲールマンの介錯に身を任せるのが一番理想だろうなと思っていた。実際にその通りだった。

 

僕が幼い頃は「選ばれし者」に憧れた。デジモンの「選ばれし子どもたち」みたいな。

今それは微妙に変化して、「たしかに自分は選ばれたが、「自分の順番が来た」だけで、大局的な視点でみれば自分は一介の人間にすぎない」ということが、より理想的な存在意義に感じるようになった。

 

Bloodborneでいうと、自狩が「特別な狩人」である期間は狩人の夢を出入りしている間のみである。

かつては別の者が選ばれ、その役割が自分に回ってきただけ。

選ばれた者ではあるが、最期は凡庸な一存在として墓が立つだけ。

他の2つのエンドは自狩が自己存在を定義したというか選択した結果なので、「ヤーナムの夜明け」エンドは一番受動的な姿勢でもあると思う。(勿論、それが最もよいと「選択」したことには変わりないけれど)

 

そういう意味で本当は最初に選びたかった選択肢を、

レベルを上げ聖杯ダンジョンを何回も周り(マラソンはしてない)強くなって、色々と考察する程度には世界観を把握しはじめて、自分なりに愛着ある武器や景色や狩人達が形成されていった最後に、

介錯に身を任せる」を選択することで本当に、真に迫るものがあった。

結果として、最後に回しておいてすごくよかった。

 

 

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自分が生まれるよりも前から粛々と続けられてきた儀式めいた何かに、自分が構成要素の一つとなり収まることに喜びを見つけたい。

 

よく自分が妄想するイメージとして、「生贄あるいは儀式に必要なものとして、死を賜ること」がある。

例えば、ある王朝で贄として選ばれる。然るべき祈りを行い、取り決められた手順に従って命を捧げる。そこに個人としての価値はなく、しかしだからこそ贄としての価値を信じられる。アイデンティティの喪失の代わりに得られる誇りと安堵感。

 

こういう風に書くととても厳格な感じに聞こえるが、そういうテンプレートを既存のキャラクターに当てはめてはキャッキャしているだけなのでオタクの妄想でしかない。

記事タイトルがふざけているのも、死生観と書くにはかなりずれた、いわゆる「夢主」とか「萌えシチュ」の方に近いからである。

 

(例えば…FGOの術ギルとか。国家の繁栄のために平凡な身分である自分が儀式の贄に選ばれ、最初で最後の謁見をし、供養としての敬意をギルガメッシュ王から受けながら首を落とされる。「礎となる栄誉を心して賜り給え。御苦労であった」という一言だけを死の直前にいただいて、それで僕は覚悟を、というよりも悟りを得ることができる。

速やかに遺体は捧げられ、余計な血や汚れは拭い去られる。まるで死など無かったかのように。

儀式が終われば王から顧みられることはもう無い、それでも自身を大いなる者に捧げることに喜びを感じてみたい。

平和な現代に生きるのんきな妄想ではあるけれど。駄文妄言失礼いたしました。)

 

 

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こういう精神性を示す曲、というか僕がこの妄想を好むようになる以前から好きな曲で、僕個人がそのイメージを曲に当てはめているにすぎないのかもしれないが、

戸川純『諦念プシガンガ』という曲がある。

 

この曲には「我一塊の肉塊なり」というフレーズがあるが、戸川さん本人が作詞した際は「我”一介の”肉塊なり」だったらしい。

※『戸川純全歌詞解説集 疾風怒濤ときどき晴れ』より

 

レコード会社が「一塊」としたらしいが、この解説集を読んだ時は「まあ確かに、その方がわかりやすいしカッコいいな、なんとなく」としか思っていなかった。

上述の「命を捧げる」イメージが好きであることを明確に自認してから改めて見直すと、ああ確かにこれは「一介」でなければいけないのだ、「一塊」だと物の状態しか指し示さない、「一介」であるからこそ含有する本質を語れるのだと思いました。

(僕の読み取り方が合っているのかどうかはわかりませんが……)

 

僕は戸川さんのような壮絶な経験をしてきたわけではない、全然足下にも及ばない人生だけれども、「諦めることばかりに集中してきた」という部分には少し近いものを感じる部分があり、この曲が好きなのです。

 

 

理想の死というか、世界に対する降伏と諦念という感覚なのかもしれない。

総括すると、そんな感じでした。