自分がここ数年でよく思い出すようになったシーンを読むために読み返し、あまりに「予言的」だと感じて今回の帰省で持ち帰った作品が一つある。
青林工藝舎 アックスストア / この世の終りへの旅 / 西岡兄妹
※公式リンクを載せたかったので出版社サイトのリンクを貼っていますが、2003年初版というかなり昔の作品なので絶版かと思われます。
一時期いわゆる「ガロ系」にハマって色々探した時、西岡兄妹という作家を知った。
名前の通り兄妹で制作されている方々で、お兄さんがストーリーを書き、妹さんが絵を描いている。(はず。興味がある方は調べてください)
昔は『死んでしまったぼくの見た夢』という作品が一番好きで(今も一番を選ぶならこの本だ)、他の作品はいくつか読んだが深くを理解できなかった。
もし理解できたと思っても勘違いかもしれない。それくらい意味深で、陰惨だけれども美しい寄木細工の箱のような作品が多い。
わからないながらも、手放しがたいような目を逸らせないような感覚がしたのは覚えている。
『この世の終りへの旅』は長い旅路に複数の舞台とエピソードが描かれた作品だが、加筆された章により日常のループの中でみた夢のような結末になっている。
……僕はあらすじを書いてまとめるのがとても苦手なので、上述の「予言的だ」という部分だけ書く。
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仕事に行こうと思った
靴の紐を結ぼうと思ったら 結び方が解らなくなった
ぼくの感情と ぼくの靴の紐は
無茶苦茶になってしまったけれども
(中略)
ふり返るとそこには
自由という無限の地獄が広がっていた
慎重に一歩を踏み出す
ぼくは不幸ではない
がんばれ がんばれ…
この文章は冒頭、そして加筆されたラストの章に書かれた言葉だ。
この朝の感覚は一般的な社会人の連続的な、平凡な日常だと思う(僕だけの可能性も十分にあるが)。
ラストでは「がんばれ」という言葉の繰り返しのうちに、いつもの道を歩く主人公と街の景色の輪郭が曖昧になって消えていき、白紙になる。
この擦り切れるような、そして最終的にはそうやって消えていくのだろうというようなシーンが、学生の時に読んだ印象よりもはっきりと実感できる気がする。
心の中で自分のために呟く「がんばれ」は、その言葉自体に意味は無くて、自分の肉体と精神を人の形に保つための祈りやおまじないのようなものだ(少なくとも僕にとっては)。
そうやって流されるままに日々を暮らして、将来性や明るい未来も向かう当てもない消耗戦を続けていくような生活に、僕は陥っている。それでもいいと半ば自棄的にも思っている。
この作品にはそういう未来を言い当てられていたような気がして、どきっとした。
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「それがおまえの罪なのだ」と裁判長が告げるシーン。
僕は前後に何があったのかは忘れ、それだけを記憶していた。
ただ、何か生きることそのもの、「自分自身」という気難しくて面倒くさい人間と一生付き合っていかなければいけないことに嫌気がさした時、このシーンが思い出された。
何故かはわからなかった。
主人公は長い旅路の末裁判にかけられる。死刑執行の直前、司祭に何か言い残すことはないかと聞かれた彼。
少し考えて
そして確信をもって言った
ぼくは皆さんのことが嫌いでした
それがおまえの罪なのだ
それまで黙っていた裁判長が 初めて口を開いた
ロバの尻が叩かれた
刑は執行された
彼の罪状は、旅路で出会い、愛し、殺して革袋として共に旅をすることになった女性(とある村のもてなしで提供された、人間の女性にそっくりの「虫」)を殺して食べたことだとされている。
裁判中、彼が大切にしていた革袋の彼女はぞんざいに扱われ嘲笑される。彼は悔しさや不快感や、けれどもどうすることもできないという諦めを感じつつ「争うつもりはありません」とだけ答える。
早く裁判を終わらせてほしいから、早く革袋を返してほしかったから。
裁判の後、彼は首吊り紐をかけ、最後の望みとして彼女を返してもらった。
それ以降は、上記の引用の通りである。
「ぼくは皆さんのことが嫌いでした」と主人公が告げるカットでは、刑が執行される様を見に来た聴衆に向かって言うような構図になっている。
それは野次馬に対してとも思えるし、人間社会というものに対してとも思えるし、自分の人生の総括として生じた言葉とも、個人的には思えた。
皆さんというのは特定の何かではなく、その空間に自分が存在する感覚としての嫌悪感なのではないか……と思ったけれども、よくわからない。
このシーンは、前後の内容によっても印象が変わると思うので抜粋するのは無意味かもしれない。あくまでも僕個人が想起するイメージの源は何か?という話なので、要約でも考察でもない。
自分がなぜ「それがおまえの罪なのだ」だけを覚えていたのか。
主人公が感じたものに近い、世間対自分のままならなさや無力感、厭世的な感覚を僕が感じた時、「そういう感覚を抱いてしまう自分」という存在自体を断罪するフレーズとして脳裏に浮かんだのかもしれない。
自分の存在自体が、社会的動物の人間という枠組みには不適合であったという答え。
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昔読んだ時には比較的好みではあるものの、特別な本ではなかった。なぜ覚えていたんだろう。
この作品の主人公にずっと付きまとう不安感や小さな喜び、落胆、流されゆく彼の一つ一つがとても啓示的というか、今の自分が結果的に行き着いた場所であるかのように感じた。
内容的にも入手経路が無い点でも人には薦めづらい作品だが、今の自分には何か決定的な意味を持った一冊だと思う。
そんな感じです。