壁打ち

感想、考察、日記、メモ等

20230510(漫画『忍者と極道』感想、「割れた子供達」)

無料公開の恩恵をありがたく頂戴して、『忍者と極道』100話まで読みました。

 

元々絵柄が好きだったこと、任侠モノ(ゴッドファーザー北野映画程度の知識ですが)に好みの作品が多いことから、気になってた作品なので読めてよかった。

ビジュアル的にもよかったし、作品の根幹に流れる意識が自分と似通ったものを感じて安心して読めた。(目にするものにすぐ自己投影するのは恥ずかしくも感じるのですが…)

 

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一つ僕の中で重要な基準として、「善悪」や「正義」を作品並びに作者がどう捉えているかというのがある。僕としては絶対的な善悪が存在する作品より、相対的な見方ができる作品の方が好みだ。(勿論、例外もある)

 

『忍者と極道』は社会悪をテーマにせざるを得ない題材でありながら、絶対悪を作らない点がとても嬉しかった。

忍者は極道(≒社会的な悪)を殺すがそれは社会の秩序を守るためではなく、不幸な人間をこれ以上増やさないためという理由であり、この違いはとても大切なことだ。社会の枠からは外れた(隠された)忍者が倒すのがよい。

社会からの制裁、社会秩序の維持というものをマクロ的なエネルギーと表現するなら、
人間一人一人の不幸を未然に防ぐというミクロなエネルギーで忍者は闘っている。

 

だから忍者は「情」に弱いのだと思う。

マクロな視点は個々人の顔が見えないからこそ理性を保って何をすべきか見定められるが、ミクロな単位で闘っているとどうしても「個人の顔」が見えてしまう。敵の事情、己の本音が常に判断を迷わせる。

割れた子供達(グラスチルドレン)戦では、忍者陣営がやるせない気持ちを抱きながらも闘った。他作品でも敵に同情する場面は珍しくないが、それはあくまでも「勝者や社会的な善に立つ者」が投げかける哀れみであり、時には侮辱的な意味にも捉えられてしまう。

『忍者と極道』ではそれが忍者であること、社会から一線を引く者であるということが実はとても重要な意味を持つ、と個人的には感じた。

 

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僕がもう一つ、共感したことがある。「そうすることでしか生きていけなかった」という感覚。

僕が普段、他の人(特に、攻撃的感情的仕草を投げかけられた時)に対して、怒りと引きかえに考えることだ。怒りだけではない、本人は無意識でも周りに少し厄介に思われている行為や、相手が僕に向ける優しさ、(自分を含めた)個々人が持つ気質性質なども、そういう風に考えることがある。

(僕のこの感覚は相手を侮辱したり見下す意図はない。しかし相手が不快に思えば、それも僕自身の迷惑な行動の一つなのだと思う。そしてこの感覚もまた「僕がこうすることでしか怒りを受け流し生きていくこと」ができなかった証左だとも思う。)

 

「そうすることでしか生きていけない」これは割れた子供達と闘う際、子供達がなぜ殺さずにはいられなかったか語られる際に出たフレーズだったと思うが、現実のニュースを見て近しい感覚を持つ人も少なくないと思う。僕もついそう考えてしまうが、現実ではそうも言っていられない、で片付けられてしまう話だ。人の命と社会秩序の為。

 

(専門家と呼ばれる人たちがメディアで、しかつめらしい表情で社会制度を~とか論理的な雰囲気のことを言うが、これは聞く意味がない。それはニュースを締めくくるおまじないのようなものであり、絵本を読んで「おしまいおしまい」と言うのと大して変わらない。「そうすることで食っている、生きている」人たちだから仕方ないが。)

 

忍者はそんな境遇の子供達に理解を示しつつ、殺す。フィクションであるからこそ、「相手を認めつつ、相手を殺す」という行動が可能なのだと思う。現実では叶わない、加害者も被害者も慈しみ、守り、更なる犠牲を防ぐこと。

 

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割れた子供達戦の最後に走馬灯的な”夢”のイメージが出てくるが、それはベストな夢ではなく、子どもたちの憧れた頂点には辿り着けていないベターな夢だ。

つまりそれは、走馬灯の夢の中ですら大きな可能性を想像することができなかった子どもたちだと思うと切ない。

 

 

連載中の救済なき医師団の思想も…とても共感してしまう。

現在進行形で連載や放送が続いているコンテンツを追うのは、個人的にとても難しいことだ(たとえそのコンテンツが大好きだったとしても、それを毎回毎週追うことは僕にとって強迫観念になるので)。

けれども僕のできる限りのペースで、読み続けたい作品だった。

 

 

そんな感じです。