この記事のきっかけ
・善良すぎる人々ばかりの作品を見ていると傷つく、ということについて
その作品では「善良でない人」は普通にいるが、描くのは蛇足になるから割愛されたのだと思う。
もしくは「善良でない人」は邪魔者だから、視覚化されていない(社会において弱者が視覚化されにくいことのように)。
フィクションだからこうであればよかった、というのもあると思う。
そこは作者の意図の有無に関わらず、さらにその奥の無意識の性善説/性悪説に基づいてにじみ出るように、僕には思われる。
(そういう「作者の無意識の領域がにじみ出る」ことはあらゆる作品に言えると思う。だから熱心なファンが、作者自身の好みを嗅ぎ当てるのは容易だ)
話を戻して、
それを読んで傷ついた人は、自分の現世と比較してしまうからだ(僕も同様だ)。
でもそれは作者と読者、作品いずれも悪くないと個人的には思っている。そもそも世界観が違うから。
僕は善良すぎる展開の話は興味がなかったりする。
あと、人間が露悪的にギャグっぽく描かれているのが苦手だ。人間はそこまで馬鹿じゃない、読者も含めて。と思ってしまう。
だがそれはあくまで僕の人類観であり、僕の苦手な作品を書く人が僕の苦手なタイプかと言われるとそうでもないと思う。
作品の描き出す人柄というものと完全一致することはまずない、多分。
でも、それでいいのだ。
個々は己の世界観のなかでしか生きられないのだから。
※僕は五十嵐大介『ディザインズ』を読んで「環世界」という言葉を知った。
ここでは世界観と書いたが、環世界と呼ぶ方が、感覚的には近かったかもしれない。
・ゾーニングするか否か
昔から、フィクションのゾーニングはどこまですべきなのか、逆にしないからこそ大切であるのか等々の議論がされてきた。
手塚治虫から始まり、「この作品はフィクションです」記載について、病気の描写についてワンピースの質問コーナーで尾田さんが書いていたこと、ネットの広告とSNSの氾濫の話……色々書くことはあるが、やめた。
社会的・客観的・理論的な話をしようとすると、僕個人と乖離していく。
僕はゾーニングや表現について個人的な範囲で色々考えてはいるけれども、それを記述すると、まるで文章を通して他人に干渉しているような気がして、それは僕の本意ではないので。
端的に言えば、苦手な要素についてあらすじでUターンできる程度の記載があれば嬉しいなと思う。
あと広告や宣伝をするときに、センシティブな内容を隠したりミスリードするような表現を、「出版社や広報が」しないようにはしてほしいと思う。
作家は「自分の思うところ」によって描けばよいと思うし、読者が個人規模でするシェアについても「個人の思うところ」に従うしかないと思う。
善良な人間でありたければ、どういった層が自分の発信したものを目撃するのかを考えてから出すくらいしか、自分でできる倫理的リテラシーに沿った行動はできないと思う。
あくまでも善良でありたければだし、実際に出してみてどうなるかなんて誰もわからない。今のインターネットは制御不可能になっているから。
以上です。