『ソナチネ』をもう一度観た。十年近く前に観て、好きな映画だなと思った。
あまり内容は覚えていなかった。
(今回はタイミング的にじっくりと観るのがしんどくて、所々早回しにしたけれど)
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意外と笑いのシーンが多くて驚いた。
典型的な笑いやシンプルな笑いで、ヤクザ映画と確実に相性のいいシニカル&ニヒリスティックな笑いを敢えて遠ざけているようでもある。
白昼夢のような笑いのパートと並行して進む現実は虚無だから、対照的であるのがいいのかもしれない。
現実の苦汁をなめるようなシーンは、いわゆるキタノ映画で頻出する「登場人物がある光景をじっと見ているカット」が多い気がする。
キタノ映画のじっと見据えるようなカットが「基本的には、日々は虚しいものだ」という感じがあって好きだ。
僕は大杉漣さんや寺島進さんが元々好きで、その後ソナチネを知った(はず。おぼろげな記憶)ので、若い頃の二人を見られるのはとても嬉しい。
監督と人間の好み・趣味が被っていると、安心して映画を観ていられる、気がする。
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(もちろん、こうじゃない人もいるだろうけれど、)
笑い(楽しい、嬉しいではない)というものに触れる機会の多い人や、そういう感性の高い人ほど、笑った後の静けさを知っているような気がする。
祭りと日常とか、ハレとケとか、そういうもの同士を繋ぎとめる(ひいては、そうやって生きのびる)ために「笑い」があるんだと信じている人たちは特に。
花火が消えた後の暗闇で、その直後に「よ~し、次はこの日にやるぞ!」と奮い立てる人は強い。
あるいは、暗闇の中でもしみじみと感慨にふけることのできる人は、帰る居場所や拠り所があるのかもしれない。電気の消えた自宅のように、暗闇の奥にもちゃんといつもの日常があることを知っている。
でも花火が消えた直後、その暗闇の中に「ほんとうの終わり」の亡霊を見てしまう人もいると思う。それは普段の性格が明るいとか暗いとかは関係なく。
命はかけがえのないものであるが、日々は虚しい。
命はあっけなく脆いものだが、日々は笑える。
その両方が同居することの違和感を武さんの映画を観るたびに思うけれども、それは両立するということのなのかもしれない。
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部下が殺された直後に(だだっ広い、身を隠しようもない)白浜でフリスビーを投げるのって、やっぱり「死ぬのが怖い」と「もう死にたい」のはざまにあるということなのだろうか。
希死念慮の強い時に観ると
(希死念慮というのは、僕の厭世観とか自分の今いる地点に絶望したり忘れたりして浮き沈みするものなので、いつものことです)
やっぱり武さんも死にたくなった時があるのかなと知りたくなった。
多分あるのでは、とまでは確信できるけれど、彼ほどの人が具体的にどういう場面でそう感じるのかが分からないから。
下世話で野暮なことかもしれないけれど。
(多分数多のエッセイやインタビューで色々な話をされているはずですが、僕はあまりその辺りは追えていません。
実際に事故に遭ってから、死生観は変わっていると思いますが、
僕はリアルタイムでその時期を生きていないので、死生観以外も、
経歴や人物像や言葉にできない雰囲気や、多方面的にどんな方であったか、またそれを経た今どんな方であるかはあまり知らないのです。)
そしてそういう話は、まさにそれを体感している時期にしか真意を聞けない話だと思うので、今の武さんとはきっと少しずつ違うのだと思います。
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あと、かわいい青年(外見がというよりかわいがっていた、というニュアンス)が命を散らすのも、よく描かれるシーンだなと思った。
アウトレイジビヨンドといい……
そういうところが好きです。
以上です。