壁打ち

感想、考察、日記、メモ等

22年越しの感想『セレビィ 時を超えた遭遇』

セレビィ 時を超えた遭遇』を観直した。

当時小学生だった時に観たはずだが、セレビィが死ぬ?場面がものすごくショックで(好きなポケモンだったけど、観てからちょっと怖くなる程度には…)それしか覚えてなかった。

 

(個人的な記憶の中の映画イメージ)

見て!セレビィが踊っているよ
かわいいね

みんなが神聖な森で争ってばかりいるので、セレビィはしわしわになってしまいました
お前らのせいです
あ〜あ

 

という感じ。。。一応ハッピーエンドですが、絶望感から抜けきれなかった印象。

あとゲーム金銀版の森にあった「ほこらが関係している」という記憶があった

(実際、映画ではそこまで深い関係はなかった)。

 

 

 

 

・ネタバレあり要約

珍しいポケモンとしてハンターに追われるセレビィ。その場面に遭遇しセレビィを庇った少年ユキナリは、セレビィの能力「ときわたり」で40年後の未来にワープしてしまう。

ワープした先はサトシ一行が旅をしている時代であり、彼らと力を合わせセレビィを保護し、不思議な湖の力で傷を癒す。

元気になったセレビィと共に美しい自然を楽しむサトシ達。

 

幻のポケモンセレビィの行方を突き止めたロケット団幹部ビシャスは、己の手中に収めようと森に侵入し、サトシ達の隙をついてセレビィを捕らえる。

ビシャスの「ダークボール」によって捕獲され暴走したセレビィは、樹のゴーレムとなり森を破壊し、湖を穢してしまう。

 

サトシ達の説得により記憶を取り戻し、悪の心に打ち勝ったセレビィは暴走を止める。

しかしセレビィはその力を使い果たし、スイクンの力によって元通り綺麗になった湖の力をもってしても甦らなかった。

しかしその時、ときわたりによってワープしてきた仲間のセレビィ達が現れる。

仲間の力により復活したセレビィによって、ユキナリは元の世界に戻ることができたのだった。

 

 

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ポケモン映画シリーズと、それらに対する当時の感想

セレビィは2001年夏公開。

「サトシ達と映画オリジナルキャラクターが、幻のポケモンを悪の手から守る」ポケモン映画王道のシナリオです。

 

けれども逆に共通しているのはそこだけで、それぞれの映画はかなり観た後の印象とか分かりやすさが違う気がする。なんとなく

(特に「物語進行のよくあるパターン、起承転結のバリエーション」をまだ多くは知らない年齢だと複雑すぎるテーマとかも……)

 

個人的にはミュウツーが一番好き(悲しい過去と自己存在への問い、ミュウツーがメインでとにかくかっこいい、互いに互いを傷つけ合い悲しみに暮れる描写がよかった等)だし記憶もそれなりにある。

ルギアはちょっと作業感(ゲームのミッションを淡々とこなす感じ)があり、三匹の鳥ポケの過程が長くて、一番好きなルギア自体が活躍した場面の尺が短かったので、あまり……

エンテイは後半の理屈?がちょっと難解で当時はよくわからなかった(最近Wikiのあらすじでなんとなく理解)。知らん少女に母親を取られるというのも、子供心にちょっと嫌だなと思ったり。

 

それ以降のポケモン映画はテレビ放送版を流し見するくらいです。

 

 

けれどラティアスラティオスはちゃんと見た気がする、実はこの映画を観た僕の感想が「セレビィ」とほぼ同じで

「だってラティオスは死んだじゃん」(だからハッピーエンドとはいえない、ベストな答えではない)だったのですが、

映画を一緒に観た友人が「ラティオスはただ死んだんじゃなく、新たな命として町を守っているんだ」という話をしていて(実際Wikiによると、ラティオスは死後「こころのしずく」という宝石に変わるらしいのでこの解釈が合ってる)

そうなのか……?という、釈然としない感じになっていました。

 

エンドムービーで元々いたラティアスの他に、新たなラティアスラティオスの個体が現れる(←捏造記憶だったらすみません)のも「死んだ奴のことは忘れなよ」という感じがした。と思う……我ながら捻くれた思考だけども。

 

 

 

・大人になってから観た「セレビィ

他映画でもそうだろうけど、その当時に流行った物事やアニメーションの名作の良いとこ取り的な感じ。

ポケモン映画は年一で出て、製作も約一年(とDVD特典のメイキングでオーキド博士が言ってた)なので、製作に何年もかけるタイプの映画より旬のものを取り入れやすいのかもしれない。

 

自然の力強さや美しさはもののけ姫、ゴーレムに搭乗するセレビィエヴァ、敵はガンダム(というかシャア)、セレビィ復活シーンはフランダースの犬とか……

セレビィのゴーレムは形態が3段階あるらしく、その辺りはゲームのボスキャラや特撮映画のウルトラ怪獣とかの流れを感じた。

あとユキナリがアンパンマンの声(戸田恵子さん)なので、悪い心に支配されている者を正気にかえらせる、というのが合ってた。ロールパンナちゃん……

 

大人が見ると二番煎じに思えてしまうけども、子どもがどこかで「そういう鉄板な表現、モチーフ」に触れる機会も必要だし、映画の入門編だとも思った。

 

 

テーマについては特に「人間は森を汚す」という部分がもののけ姫、ひいては90年代後半~00年代の環境問題、人類の発展が地球をダメにする……という思想が反映されているっぽい(主観)。

森のポケモンが呼応するシーンに「人間、人工物は悪い(野生の動物の勘は正しい)」というニュアンスが含まれている気がする。

けど、なんやかやハッピーエンド。

 

 

僕はポケモン≒生物派なので(それとは異なる流派に、「ポケモン≒人間ではない存在」があると思う。今度別記事で書きます)

初期ポケモンアニメ&映画によく出てくる、自然の中で暮らす野生生物としての描写が多いのが個人的に嬉しかった。動物好きの延長線上。

そういえばサトシがアクロバティックに根性でどこへでもついていくの、アニメ特有のサトシだなーと懐かしかった。

 

 

・ゲームとアニメの違いとその影響、『アルセウス』『ポケモンSV』のシナリオへの反応

これはポケモンだけでなく、メディアミックス系作品には逃れられない宿命だと思うけれど。

制作陣の方針が各コンテンツで違ったとしても、相互に影響せずにはいられないという話。

 

ゲームのポケモンシリーズ(は全作品プレイしたわけじゃないけど)、人間ドラマ的な描写は歴代あっさりしていると思う。

「戦って一番になる!」という少年向けのゲームから進化して「ポケモンと一緒に旅をして、個々人の目標を達成する」というものに変化したのは、意外と最近なんじゃないだろうか。

(※これはアラサーの言う「最近」で、ポケモンコンテストとかも最近のうちに入ってしまってます。)

世界を創造するとか話が宇宙規模に大きくなってからも、それと並行してあくまでもポケモントレーナーとして戦うことがメインだったと思う。

そして「虫取り少年」「サイキッカー」「○○なおねえさん」等々、肩書は色々あるもののポケモンを連れている人はほぼ総じて"ポケモントレーナー"だった。

 

 

対してアニメは放送開始時から「暮らしになじむポケモン、人と共生するポケモン」にかなり描写を割いていて、

ポケモンをボールに入れず出しっぱなしにする・ポケモンに家事や仕事を手伝ってもらう等、「トレーナー以外の人がバトルじゃない目的でポケモンと一緒にいる」ことが当たり前に描かれている。

そしてそういう描写が多くなると自然と、ポケモンと暮らす「人間」がどんな風であるかという描写も増える。人間も顔の出ないモブではなく、過去やポケモンとの思い出があったり。

 

そのアニメの描写が人気だったからなのか、次第にゲームの方にもアニメ的な世界観が採用されてきたのではないか……と個人的には感じる。

(実績埋め厨ゲーマーとしては遊び方が多様になる分やり込み要素が増えて、全部やろうとするとパンクしてしまうのだが……)

 

最新作のSVは(個人的観測範囲で)シナリオがすごく評価されているという印象で、

ゲーム性を保ちつつポケモンと人間、そして人間同士の交流についても深く掘り下げられていたのかなと思います。

未プレイで本当にすみません

 

 

回り道してしまったが、何が言いたいかというと

セレビィ映画やアニメ・派生作品の過去の展開が、『アルセウス』のシナリオの評価に影響を与えていた」のではということです。

 

僕がアルセウスのゲームシステムに惹かれつつ長いこと手を出さなかったのは、

シナリオに対する評判として「主人公(やノボリ)が元の世界に戻れないのがかわいそう」「大人が無責任すぎる」というのを同世代から聞いていたから。

聞くだけの段階だと「たしかにそれはな……」という印象だった。

 

ほとぼりも冷め(?)しかし実際にゲームをプレイした個人的所感として

「主人公が元の世界に戻りたかった」描写が無い&記憶を失った以上、タイムスリップ先で幸せになれればそれが幸福なのではないかと思った。

例えばいわゆる「なろう系転生モノ」では、元の世界は主人公にとってどうでもよかったり、あまりいい境遇ではなかったりする。

アルセウスはこの一時期大流行した「転生モノ」をベースにしたのではないだろうか。(憶測)

 

 

一方で、上記のシナリオに対する不満が出てしまうのも自然だと思う。

アニメシリーズ的な文脈で考えれば、ユキナリが過去に戻れたようにアルセウスの主人公も「元の世界に戻ることが本来の幸福」なのだと考えても不思議ではない。

 

しかも実際にアルセウスをプレイしはじめた層というのは(多分採用されたポケモンの世代的にも)

僕のように久々にポケモンをプレイするとか、当時のアニメの思い出がある人達が気持ち多めだったんじゃないだろうか。

そういえば『ポケモン不思議のダンジョン』シリーズも「元の世界(人間)に戻りたい」というのが根幹にある気がする。すみません、シナリオちょっと見ただけの未プレイです

 

そういう今までのタイムスリップ&空間転移事例をアニメで観てきた人々にとっては、アルセウスの「戻れないこと」を不幸なことと捉えると思う。

アルセウスはある意味クールというか、「ゲーム製作陣がセレビィみたいなのを作ったらアルセウスになった」ようにも思う。人間ドラマに不慣れというか……

 

↓ちょっとだけ関連っぽいことが書いてある(記事後半)

blue-442385.hateblo.jp

 

個人的に映画「セレビィ」とゲーム「アルセウス」を脳内で紐づけてしまった要素として、モンスターボールの描写もある。

ユキナリのボールはネジ式で「旧時代のポケモンボール」っぽさがあってよかった。

悪役のダークボールも改造ボールの一種だし、金銀版の「ぼんぐりの実からボールを作る」という設定を映画はしっかり採用している。

 

しかしその後ゲーム本編では「ボールを作る」設定自体が無くなってしまう。

それを引き継いだのがアルセウスであり、やはりその点からも金銀プレイ世代を狙ったゲームだったのではと思う(モンスターボールだけに)。

 

 

(話は逸れるが、イワークって初代ポケモンなのに色々出ててめちゃひいきされてるよなと思ったけど、アニメだとタケシの手持ちでかなり頼りがいがあったからかもとセレビィの映画を観て思った。やはりアニメシリーズの功績は大きい)

 

 

 

・子どもの時に感じた絶望感の正体

セレビィがしわしわになって戻らない、トラウマシーン。

今観ると、綺麗な湖が戻ってもセレビィは生き返らなくて、木の実を食べさせようとしても応えてくれなくて、木の実と涙がぽたぽた水面に落ちるシーンがすごくよかった。

 

 

子どもの時「死んだら戻らない」と強く感じたのは、仲間のセレビィ達により復活する理屈が納得いかなかったのかもしれない。


大人になった今わかったことをまとめつつ仮説を立てると、

セレビィ自体には回復力がなく、湖に回復の力がある。

◎湖が元通り綺麗になってもセレビィが戻らなかったのは、操られていたとはいえ「セレビィ自らが依り代にしていた森を穢した罰」だから。

◎仲間のセレビィ達が行ったのは「肉体の時間遡行」であり、しわしわセレビィ(=死)を甦らせたわけではないと思う。スイクンが湖に行ったように穢れを払ったのではなく、穢れる前の状態に戻したという方が近い。

 

……という感じだろうか。

セレビィが生きていた時の最後の記憶が「暴走して苦しむ姿」だったのが辛い。

子どもの自分が感じた不可逆性は確かだったと思う、説明は難しいけれど。

 

 

 

 

手放しにハッピーエンドとは言えないけれど、救いはあった。

観直してよかったです。