壁打ち

感想、考察、日記、メモ等

映画『首』壁打ち

※この記事は全て僕の妄想と憶測です。実在の人物、歴史等とは関係がございませんので、一切信用しないでください。

有識者でもございませんので、ここで述べた史実、芸能、作品の変遷等の背景について語られたものは無学な人間が書いている点にご留意ください。

 

※敬称略。

※ネタバレです。

 

twitterの長文版と思ってください。

 

インタビューと言ってるのは主にこちらのシリーズ、と映画公開会見時の話

eiga.com

 

 

真面目に書いた方の感想。

blue-442385.hateblo.jp

======

・光秀が信長の手紙を見て「所詮人の子だったという訳か」ってキレるのは信長強火担だから、彼の非人間的なカリスマ性を信じてたからだと思う。過剰な推し活にも近い(少なくとも『首』の光秀は)


どこに憤るのかというのが重要なポイントで

「子ども(自身の直系)に継がせたがったから」というより、

「統治者として自身の子を不適格とわかっていながら、誰も次善となる後釜を選ばなかった」というところがカリスマ性に傷をつけるような怠慢な判断に見えたのでは


・少なくとも『首』の信長は御家が大切とか子孫の栄華とかに関して、自分が死んだ後はどうでもいいと思ってると思う

(光秀は信長が「家督とかどうでもいい」と思ってるとこも気づいてるが、じゃあベストな次の首領を選ぶはず、選べる先見の明のある人のはずなのになぜしないのか、みたいな)


・何か他のの作品でも思ったけど、光秀は描かれ方によっては個人的親近感でめちゃハマると思う、切れたら人間関係というか秩序全部パージして破壊するとこが…

それこそ劇光仮面とか吉良吉影みのあるストイシズムと掛け合わせたら(そこは親近感ではなく憧れも混入するから)めちゃくちゃ好きになってしまう

信長周辺の話は80くらい説があるって武さん言ってたし、

光秀をどう描くかで作家が光秀をどう捉えてるか(卑怯な奴か狡猾な奴か、人間の器とか武士道的なものを軽んじる/重んじるかとか)わかると思う

 

・ハレとケが激しくて、周りを巻き込んで居場所を自ら破壊してしまうタイプの躁鬱質的なカリスマ性ある人間のこと、いつもフレディ・マーキュリーみたいな人間と形容してしまう(個人的に)。首の信長はそういう奴


・秀吉が地頭よくてこずるくて、家康は努力家〜みたいな家康遠回しageみたいなやつ、日本人の一部が好むあるあるパターンて感じだけど、

武さんはむしろ家康はきれいな振りして自分は手を汚さないだけで、汚いこと色々やってんだぞ!みたいなこと思ってそう

 

 

======

・村重はちいかわ

・村重がエンケンさんなのは…「その男、凶暴につき」で出て以来?らしいからだいぶ期間が開いてるけど

ちいかわメンタルみたいなふにゃおじ役とかをCMとかドラマでやっててある意味鉄板キャラみたいなイメージが勝手にあるけど、つまりそれは芝居のお仕事として情けない感じができる、本人のプライドと切り分けて演じられる人だとわかってきたからでは。

社会的イメージや経歴が積み重ねられてきて、それを参考に選んだというのもありそう

 

・「その男~」の時の若かりしエンケン桐谷健太にめちゃ似てて趣味なんだな~と思った

 

西島秀俊遠藤憲一が過去作で関わりつつだいぶ間が空いてから招集されたのって、武さんが「(当時は色々思う所あったり良さを引き出せなかったが)今ならいける」と思ったからとかないだろか

 

・監督は絵画のように一枚のカット的な「画」を大事にするから、この二人は多分容姿風貌的に好みなんだけど「役者」として起用するには御しきれんみたいな

その二人が今濡れ場やらされてる(言い方)の面白い、偉い人が好みの奴ら2人を閉じ込めて「お前ら、裸で抱き合え」のやつじゃん(←どこから来たテンプレなんだろうこれは)

 

 

======

・映画.comのインタビュー読んで、加瀬亮回が後半に公開されたから(後半の人の方が内容に言及できる?)というのもあるかもだけど、

加瀬さんと武さんの感覚は近いと思う。武さんは加瀬さんを「普通の奴、小物キャラ(っぽい奴にめちゃくちゃさせると面白いのがアウトレイジでわかった)」と言ってるけど、

世間的には「加瀬亮」は確かにモブ顔というか地味めだけど、もっと優しい人みたいな更に柔いイメージじゃないだろうか。

 

・武さんが加瀬亮を普通と感じるのは、彼自身が土台はとても謙虚だからでは。

そういう奴が天下を取ってしまった時ああいう感じになると思ったのかも(”芸人ビートたけし”や”映画監督北野武”といった看板がめちゃデカくなって、それによるしがらみやここまで来てしまった感、頂点ゆえの孤独感)

 

 

・「いい人」って誰?という点で、

大杉漣さんは演じる役の奥から「いい人の根っこの部分」が滲んでしまう良さがある。(そこからの優柔不断さ、中途半端感のある役も含めて。シンゴジラの総理とか…)

ソナチネで電話口で怒鳴るシーンがあって、申し訳ないんだけどこの人は多分怒鳴り慣れてないんだなって感じがしてよかった(優しい大杉さんが好きというのもあり)。

箱入り娘の彼氏に「娘はやらん!」て怒鳴るけどなんとなく覇気が足りない感じ

(僕が世代的に「いい人、バラエティにも出られるユーモアや寛容さのある人」というのを知ってるから、そう見えるのかも)

 

・西島さんの起用のされ方とかも(特に近年イメージが固まってからは)「いい人の根っこの部分」があるからかなと…

 

・例えば恩人の運営する会社が次第に非人道的なことに手を染めていったとして、諫めたり説得はある程度してそれでも止まらないと悟った場合、

「恩人への敬意と信頼から、黙っている人」と「恩人に対し過去との距離を感じ、辞職して縁を断つ人」それぞれの誠実さがある。

大杉漣&西島秀俊は前者、北野武&加瀬亮は後者だと思う。仕事人としてというより、人間の気質的に

 

・光秀は信長を「変わってしまった」という敬意や崇拝→失望という過程で縁を断つ、というかこの治世ごと破壊する決意をした…のでは。(後者タイプ)

そういう面だと北野武の描く「明智光秀」は、北野武的な思想思考で動くから西島さんにはちょっと捉え難かったかもしれない。

 

・↑捉え難かったというのは彼を軽視してるのではなく、

インタビューでそういう色々な捉え難さ(役作りの他にも、作品そのものに対する印象とか周囲の雰囲気)を「勉強になった」等おっしゃってたので…武将同士の性愛描写について聞かれた時「光秀と荒木村重、そして信長は不思議な関係で、それぞれをどう思っているかはよく分からないんですけれど、」とはっきり言ってて、

自分の演じた役だけども分からない部分があるって言える正直さというか真面目さは「根っこの人のよさ」的な誠実だよな~と思った

 

 

======

・浅野さんが、端的に言うと昔と変わったと感じてたらしいところ

座頭市の時は余計なことしないでほしいというのを感じたが、BROTHERやアウトレイジを見て、監督をする上で何らかの変化を取り入れたんだなというような話をされてて

座頭市の「何もするなの圧、オーラ」の印象が深いんだなと思った。

 

・昔の武さんの映画を観てると自分のイメージに潔癖で、視覚的な画で台詞は棒読みでいいからという人形的な起用の仕方だったように僕個人は見てて感じる。

(これは僕が監督やったらという妄想も含むけど)視覚的にこれだ!という人にやらせてみて、色々指示出しダメ出しも双方不快にならない程度にして、

もし思う所あればもう次回は起用しない・別の役とかだったかもしれない

 

・武さんは漫才や芸人時代から芸能に触れてきて、演者の側に立つこともあるし色々察してしまうんだと思う。

それで根が謙虚で気遣いできてしまう人だから「あの役者不機嫌そうだな」とか、多分初期の頃は芸人上がりの監督とか言われてそうだし(憶測)

起用した人々のプライドとか自分の撮りたいものとか、板挟みで気疲れするのもなんだし……みたいなのがあったんじゃないだろうか。

 

・これは僕の周りの人たちを見てたり、僕に対して実際にそう教えてくれたことだけど

「年を取ると貫禄と、ある種の図々しさが出てくる」というのがあるらしい。


・年を取って段々「すまんけどこういう風にして〜頼むから〜」みたいな発注をかけて、それで相手が何を出してくるか、

そしてその予測不能な感じを楽しめる余裕や面白みがでてきたのでは。

昔は(勿論役者への敬意はあるが)人形的な扱いだったのに対して、今は役者という他者から出てくるものを撮る良さを見出したのかな

(ただし身内で固める感じは昔からで、接した役者の母数が増えたのもあり、

実績がついてきていい意味で監督と役者という力の勾配がはっきりしたというのもあり……)

 


・官兵衛は引きでみる人、階級の上から下まで(地位階級の偏見で判断がブレたりせず)人を見る才能がある(見たうえでポカしない人)で

ちょっと浮世離れしたチートさがある。

 

・僕個人のイメージで、ねじ式(1998年)の浅野青年(素朴、口下手不器用、クズな役)は北野映画感があるな~と思い出した。

その時期のイメージで武さんはコンタクト取ったのかなとか。


・それで座頭市の時にお互い接してみて、浅野さん的にはアドリブNGな気配を感じたけど武さん的にはその時の対応力が「相手(監督)の気質や意図を読み取るのが上手い」と感じたのでは。

だからインタビューで武さんは浅野さんを「ユーティリティプレイヤー」と表現していて、臨機応変な人、役に合わせられる人という意味もあるし、

裏の意味では監督の話をどう聞いて解釈してるかどうか、それは役者としてなのか人同士としてなのかをすごく武さんは心の奥では重視しているのかもと思った(というか気にせずにいられないというか)。

 

・そういう点でも黒田官兵衛ってすごく適役だったのかもしれない。

 

 

中村獅童大森南朋浅野忠信の3人がカンヌ自腹でお供させてっていう流れになったやつ、同世代同士でわーわーしてる様子がイメージされていい…

 

 

======

衆道というか、そういうのの描写がBL的耽美というより任侠系の「男性同士の憧れ合いからの主従関係的な愛、捧げる愛、共闘して芽生える愛」という

序列を確認する行為のような、上の者が下位の者(階級もあるし、精神的なものもあり)にわからせるとか、同じ釜の飯を食うに近い兄弟の契りとか。


・人間でいうと「機会的同性愛」というらしいが、例えば鳥の一部はオス同士でもつがいになるとか

CCさくらで「鳥かごにオスのみを入れるとオス同士で交尾するようになる」みたいなのがあった気がする(曖昧)けどそっちは真偽不明…)

猫が縄張り争いの一環、いわゆる「わからせ」行為として勝者が敗者を組み伏せるみたいなの(マウンティング)がある。それに近い印象

BLの一緒になれない悲哀…とかより暴力や支配に近い。

 

・信長が光秀や村重にキスするシーンはどちらかといえば捕食シーンだったし、お前は俺の物というマーキングだよなと思う


・男色も暴力も何故か北野監督が撮ると上品に見える(というか露悪的でないという意味だと思うけど)

というインタビューかどこかの話は、描いてるシーンが力関係の再確認であって場を掻き乱すものとはむしろ逆であるから。


・「衆道」と呼ばれているのはそういうのも武士のお作法の一つだ(地位と強さと智力で戦い、上下関係・力の勾配は崩してはならない)みたいなのがあり、そこを撮りたかったのだろうか。

力関係を崩すならそれなりの覚悟と用意をしていけという…それで光秀は覚悟して、信長のカリスマ性に尽くしたが失望し、その「過去の彼」に敬意を払うための否定、裏切りなのではないか……と思った、少なくとも首という作品においては。


・そしてその武家のお作法(切腹や首の同定作業)をバカじゃないの?と文字通り一蹴するのが

首(≒武士の名声、栄誉、価値)を蹴る百姓出身の秀吉と、首を落とした弥助(外国人)なのかなあと思った。

 

 

 

 

 

 

そんな感じです。

 

アルセウス図鑑研究ポイント:77500pt