ぼくはNさんを知っているが、Nさんはぼくを知らない。
ぼくはNさんから、たくさんのことを教えてもらい、与えられたと思っている。しかしNさんがそれを知る機会は多分、永遠にこないのだ。
======
僕個人は、「作品」は包括的であれ部分的であれ、作家の信条や思考の表象(シンボル)であると思う。
だからこそ、作品を軽んじられたり、悪意のある読み替えをされたりすれば腹が立つのも当然だと思う。作品を自身の誇りだと断言する人もいる。
そして受け手が「作品」に”強く”惹かれるということは、少なからず作家の人間である生身の部分に興味を示したり、シンパシーを感じたりすることだと思う。
逆の場合、”強く”拒否反応を示すこともありうる。
己の常識が崩れるような信じがたい有様に絶句したり、自身の内を暴露されたようで羞恥を感じたりする。
よく「作家=作品ではない」という話と、「ある思想を持つ作家から生み出された作品は、当然に思想をはらんでいる」という話が定期的に上がる。
僕は、この二つは対立項に置けるような、単純なものではないと思っている。
強いていえば、議論したいことがあるならばそのケース(具体的事象)に話を絞って判断した方が、論点のズレは防げるだろう。
一般化した汎用型の答えはないのだから、汎用定型文が飛び交っている時、物事の表面をなでるばかりではないか、とこの議論が起こるたびに感じている。
======
ぼくはNさんのことを知らないが、おそらくこんな感じだろう、と宙に人差し指で輪郭をなぞるように、イメージする。
それはイメージだから、ホンモノじゃない。
ホンモノじゃないけど、ぼくの世界におけるNさんはきっとこんな風に存在しているだろう。
それはNさんがイメージする「Nさん自身」ではないかもしれない。
だから本人によって、このイメージは吹き消されても仕方ない。
でもあるいは、そのイメージの方が「外界から識別された場合のNさん」に近しいものであるかもしれない。
いやな思いをさせてしまうだろうか。
けれどもそのイメージが、ぼくを強く惹きつけたNさんのイメージだった。
だからきっとぼくが生きている限り、ぼくの脳が動きつづける限り、Nさんのイメージは形を変えてぼくの目の前に立ちあらわれるだろう。
そしてそれは、万人が万人に対してそうであろうとぼくは思っている。
(Nさんと万人ではなく、「誰か」が「誰か」に対して、という意味。)
それぞれが肉体という機体を通して、眼球越しに世界を捉えることしかできないから。
======
作品を深く知る人であればあるほど、
その作家がどういう道を歩むのか、それは表向きの顔であったりプライベートであったりするのだが、
本人が今後どういう行動をとるのか想像できる、と思われる。(有名な監督はどう考えてこの作品を……とか、彼らのバックボーンを分析しながら)
だが、そうではない。
各々が自己の世界認知上で作品を、また作家を認識している以上、個々人間で誤差が生まれる。
そして円集合のように大衆のイメージが重なり合う所が「公正で論理的な判断で形作られた、彼らの人間性」だとされがちである。
しかしそれは母集団で形成されたあくまでも「推定される」形であり、限りなくイコールであるとは言えない。
(熱狂的なファンが集まり「これは限りなくフラットな裁定で作られた作家像、ほぼ本人とイコールである」と主張するならば、個人的には図々しい人たちの主張だなと思う。それは共通認識に酔っているだけというのもありうるのだから。)
むしろ価値があるのはその誤差の中に、認識した本人、作品を眺める人自身の思考が混在していることであると、僕は思う。
個々人の持つ「特異的視点」。
大勢が集まって作品のイメージを議論する際に、切り捨てられている余剰。
さて、大まかな「大衆的立像」が完成したとする。
これは作品や作家の将来の道行きによって、年月を経て磨き上げられたり穢されたりする。しかしそれは作品及び作家に全ての責任がある訳ではない。
前述の通り、「大衆的立像」はそのまま作品及び作家自身ではないからだ。
それはいわゆる「ガワ」でしかなく、表象(シンボル)によく似ている「イミテーション」であり、母集団の眼を通して見た幻である。
外野がテレビのワイドショーをザッピングする程度の解像度では、「ガワ」しか見えない。
(それについて、ただ見ている分には良し悪しはない。「ガワ」しか見ていない者が野次馬的に土足で踏み入れるならば、突然何者かから殴られても致し方ないとは思う、個人的に。)
大局的に物事が動くほどの規模になってしまっている時、我々が見ているのはほとんどの場合「大衆的立像」である。
そして「大衆的立像」はよっぽどのことがない限り(プロパガンダ的な強大勢力が後押しでもしない限り)、誰もコントロールすることができない。作品や作家自身も、立像を作った人々も。
だから、僕はその作品や作家がどう世の中に影響しようと、世界を救済や破滅へ導こうとも、それは自然が起こした偶発的な、天命的なものだと思っている。
======
ぼくはNさんを知らないが、
きっとNさんをもっと知っている人たちは、Nさん本人が思っているよりずっと寛容で、「なんでもしていいよ」と思っているのではないだろうか。
あるいはぼくが、Nさんをそういう世界で生きていてほしいと願っているだけなのだろうか。あくまでもイメージ上の存在として。
なんでもしていいと、ぼくは思う。Nさんが何を選び取るとしても、それはそういう運命だったから、仕方のなかったことなんだと。
ぼくが世の中にすっかり諦めているから、こういう考え方になってしまうんだろうか。
でもホンモノのNさんは、ぼくがこんなことを考えていること、きっと気づかないままなのだ。
これらすべては、ぼくの捉える世界の中の話なのだから。
======
以上です。