壁打ち

感想、考察、日記、メモ等

20240215(罪を憎んで人を憎まずとは/罪人であるところの自分)

 

 

罪を憎んで人を憎まず、という言葉の意味が昔は分からなかった。

最近は「罪(悪しき行為)」は非難されて然るべきであるが、

それはその行為を犯した「人(その人そのもの)」自体を非難することはできない、という意味だと捉えている。

 

では、罪と人はどこまで分けて考えられるものなのか、

あるいは癒合してしまっているのか。

 

 

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・ある配信者と視聴者

 

サロメ嬢の切り抜き。

これこそまさに「罪を憎んで人を憎まず」ということだと思った。

 

そして正直僕は苦しかった、こういう思考は「罪」なのか「人」なのかわからなかったから。

 

この文章の人は僕ではない。あくまでも僕が勝手に自己投影している、という狂気を前提として読んでください。

この文章の人は違いますが、僕自身は狂人なので。

 

 

www.youtube.com

 

 

投稿された文章を要約すると、

・配信者(この場合はサロメ嬢)のトレパク注意喚起の対象が自分なのではと感じた。(自分はしていないつもりだが周りからそう見えるのかもという疑念)

・自分は金銭的貢献、物理的貢献ができない。

・上記の後ろめたさから、自分は彼女が好きだから推していたはずなのに、実はそうではなく自分の承認欲求や「推し活」という行動をするために彼女を推していたのではと思いはじめる。

という感じ。あくまでも切り抜き上で読み取れる部分や文章しか見てませんが。

 

 

それに対して、サロメ様は

・発信者の言葉は深読みせず言葉通り受け取るのがよいということ

・文章の投稿主を傷つけるつもりはないが、この思考回路を怖いと感じる(自分はともかく他配信者が見たら怖いと思う、場合によっては発言できなくなるであろう)こと

・「一週間に一回サロメ嬢を想う」だけで十分「推し」と言えるということ

 

「一週間に一回~」の部分は「他者と比較した時の金銭的多寡、物理的貢献等は考えないでほしい、自分が好きと思っている気持ちだけでもよい」ということを言いたいのだと思います、多分。

漫画やアニメ等のコンテンツでもよくある「全部視聴してないから」「お金を公式に落としてないから」好きという資格がないと感じる…というのに近い。そこまでしてなくてもいいよという……

 

※本編は現在非公開になっています。これについては「厄落とし回は配信後非公開にする」「切り抜きにしないでほしい」旨のお知らせが見当たらなかったこと、僕自身がリアタイした訳ではないことから非公開の理由はわかりません、もし取り上げてはいけない内容であればすみません。

 

 

サロメ嬢の言うことはもっともで、とても建設的で優しい。

 

そして彼女の言った「本人を傷つけるつもりはないことを念頭に置いて聞いてください」という言葉と、この文章を見て「怖い」と感じたという二つのこと。

 

この思考や文章は怖いし配信者を委縮させる(可能性のある)言葉だという「罪」はあれど、「本人」自体を排除したりそうあるべきでないと否定するつもりはない。

そういう二面性?が「罪を憎んで人を憎まず」のお手本のような感じだと思いました。

 

 

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僕が苦しいと感じたのは。

病院を受診することで治るような、一時的な状態異常としてここでは語られること。

(実際にそういうパターンが多いとは思います。SNSは異常に他者が見えすぎるのでノイローゼになってしまうことが少なくない。この文章の方がこちらであることを願います…。)

もちろん、受診や治療を通して元の健全な思考に戻ることができます。

というか、ここでサロメ嬢が「そうじゃないよ!」と否定してくれただけで目が醒めるように正気に戻れる人もいると思います、たくさん。

おそらくそれが多数派です。

 

 

しかしごく一部ではあると思うけれど、

一般的に状態異常とされる「それ」が自分自身そのものだった、というパターンもあります。想像するのが難しいかもしれないけれども。

 

メンクリ、受診した人が自分以外にも周囲にたくさんいるのですが、僕より先に「卒業」あるいは「経過観察」になった人が多いです。

僕は(己の人生を顧みて)多分自分の根っこがこの病理に侵されて自分と不可分になっていて、永遠にこういう思考を抱えたまま生きていくんだと思います。

 

少なくとも僕は、そういう「他者を恐怖に陥れる化物」であるという自覚を三十年かけて思い知ってきました。

 

 

 

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~僕個人の話

 

僕個人の話。

思い返してみると、色々と子どもの頃から「ちょっと異様だけど想定の範囲内」の逸脱はあった。

成人してから、そういう精神的疾患を抱えている子かもと感じなかったか?と母親に聞いたら笑われた後「(多分僕がこういう問いかけをすることを鑑みて)育て方を間違えたかもね」と言っていた。

 

色々怒られたし叱られたり窘められたり、それが怖くて「いい子」になりたくて、自分の悪い(おかしい)部分を直して隠して。

言語的な注意だけでなく、「別に駄目じゃないけど…」と言いつつやんわり別の選択肢を選ぶよう誘導されたり、空気を読むよう無言の圧力があったり。

そうやって親や学校に社会性を「矯正」してもらったので、それなりに普通の「一般的」生徒になったと思う。

友達に嫌われる原因になった行動を反省し、封印するようにしたので友人もいた。

 

 

自己と癒着した「社会的に邪魔な部分」は犠牲を払って捨ててきた。

例えば一言多いおしゃべり癖を封印したので、会話だと人の眼を見て話せなかったりどもったりする。頭の中で相手の言葉とそれに対する適切な応答を考えるので、どうしても変な間があく。

今こうやって文字列で長々と文章を連ねているのは、その反動だろう。

 

心理学者か誰かの本で読んだことがある。自分の気質は変えられない、殺しても殺しても甦ってくるものだと。

その通りだと思うし、殺し切ったとしても上記のように別の部分で苦しむことになるんだと思う。仕方のないことだ。

 

 

自分は化物なんだと思い知らされる。

周囲を怖がらせる迷惑な存在なので、今は色々あって精神科でもらった薬でバランスを保っている。それで人間性や社会性を一生保ちながら生きていくんだと思う。

身体でも精神でも、生まれつき持っているものがあるよね。

自分の持ち物と社会とで折り合いをつけて生活しなければならない。

 

僕はそのために人格を分けたり作ったり、社会性を(それはあくまでも仮面の一部であり、自分のものとはできなかったけれど)獲得したりしてきた。

家族や教師や同級生との関わりを通して、宇宙人が形だけニンゲンを模したように「まともな人格」を作りあげた。

弊害として過去の幼少期、ありのままの自分の思い出は他人事のように感じるし、懐かしさというものを感じなくなった。過去の自分は既に死んだので。

自分の中でバラバラの考え方が対立するような自責感が毎日あるけれど、基本的には波風が立たない方を選ぶ。問題行動は抑えつけ、一人きりで誰も傷つける心配がない場所で発散する。

 

 

もしどこかで僕と同じような、ありのままの自分ではどうしても他者から嫌われてしまった、受け入れてもらえなかった人がいるならば、

そういう社会的な人格を作りあげて演じることができれば居場所も増えるかもしれない。

ただ自責感は一生残るし、ありのままの自分で生きた方がよい場面もきっとあると思う。

どう生き残っていくか、判断はあくまでも社会の秩序ではなく、本人が決めるものだと個人的には思っている。

 

 

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・どこまでが「治す」ものであるか

 

ここでまた「罪を憎んで人を憎まず」に戻ってみます。

結局精神科を受診するかしないかは、個人(あるいは家族や周囲の人々)の判断だということです。

ここで「受診しない」選択を取っても、(受診しなかった弊害があればその行為や判断を咎めることは可能でしょうが)個人そのものを悪人とすることはできないということです。

 

上記で取り上げられている思考(自分が注意されているのではないか、自分は資格がないのではないか等)そのものは良くないとされていますが、

その思考そのものが「その人」であるならば、他者がそれを強いて矯正するよう求めることはできないのです。

現代社会への適合手術」を強制しているようなものです。

(身体障害の例をとると「優生保護法」ひいては優生思想に近いものがあると思います。個人が個人の心身について決定権がなく、どのように扱うのかを他者に強いられるという意味で。)

 

 

しかし現状問題としては、殺人罪に対し精神鑑定の結果で情状酌量がつくような場面を見るとやるせないものもあります。

他者の危機が及ぶならば、疑わしきは皆「施設送り」になるべき世の中なのか。

 

そもそもどこまでが罪に問うべき行動で、どこまでが情状酌量となる個人の気質であるのかを区別するのは精神科医でも難しいし、

神様のような存在が心の裏側まで見通すようなことでもないと不可能とも思います。

鑑別対象になっている本人さえ自分の心理状態が分からないことだってあるので。そしてその「本人すら分からないレベルの心理状態」は果たして罪/人どちらに当たるのかについても分からないはずです。

 

(司法制度は人間社会の保持のため必要とされているので、完全性に欠けていても運用していかなければいけないのもまた実情ですが。)

 

 

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・自己責任論と「罪=人」の構造

 

「罪を憎んで人を憎まず」と対極にあると思われる、自己責任論。

 

上記の優性思想と、資本主義・個人主義化した現代で覇権ともいえる自己責任論はゆるやかに繋がっているとも思います。

そして自己責任論一辺倒になると、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉は無価値になります。

 

その人が「その人であること」自体に責任を持ち、何らかの他害があれば対応を迫られる。

「どうしてそう判断したのか、どうしてその行動に至ったのか、全てはその一個人から発生したものであるのだから、あなたが責任を取りなさい。」ということ。

 

問題となる心身、思想、行為がその個人存在と強く結びついていて、それを罪に問われるということは個人の存在意義の是非を問われることと同義になります。

自己責任論の支持者の一部にはこういった判断について、全く正しいと感じたり司法や社会制度はそうあるべきだと思うかもしれません。

 

自己責任論という名称を掲げなくとも、またここまで極端でなくとも「その人の行動の源流がその人個人から生じているんだから、それは本人が責任を取るべきだよね」という考え方はあると思います。

何より僕自身、少なからずそう感じているから上記の”精神鑑定による情状酌量”のケースについて素直に首肯できないのです。

 

 

法律や犯罪に関する分野については問題が大きすぎることと、既に「社会制度」として手続きが確立していることを踏まえると、個人の努力ではどうすることもできません。

 

ただ個人の考え方において、

「罪」と「人」は分離不可能なものなのか、あるいはそれらは分けて判断すべきなのかということを冷静に見定めることは忘れないようにしなければと思っています、少なくとも自分は。

 

 

 

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生存戦略

僕が自己責任論的な方向から一旦逸れて「罪を憎んで人を憎まず」の文意を一理あるものとして捉えるようになったきっかけの一つは、

個々人の生存戦略について考えた時のことです。

 

つまり環境要因的というか、その人はそうしないと生き残れない環境にあったのだ、という考え方です。

 

例えばいじめ加害者の家庭環境は良くない場合が多いことであったり、人から愛情をかけてもらえなかった結果、人格に悪影響が出たり。

そしてそれが他所で加害的行動に変わったり、その本人が親になった時の子どもへの虐待等、いわゆる「負の連鎖」が起こることも最近は多く認知されていると思います。

 

(ただ加害者を擁護する方向に派生しかねないからか、メディア等ではそういった

「(加害者本人の立場・視点からみて)やむを得ない生存戦略を選び取った結果、加害行為に発展する」という部分についてはあまり着目していないように感じます。)

 

 

もちろん「それが彼らの生存戦略だから」で罪が無くなる訳ではありません。

加害等行動の結果としての「罪」は裁かれる必要があります。

 

ただし一方で、彼らの「人」の部分を完全否定することはできない、と最近は思うようになりました。

そういう暴力的な行動で常に周囲を威嚇しなければ生き残れない、見捨てられる、殺される環境で生きるということ。

 

酷い親の下に生まれた子どもたちに「この場所に生まれたことそのものがお前の罪なのだ」とは、とても言えません。

少なくとも環境に殺されなかった僕が、

殺され死んでいった子どもたちやなんとか生き延びたけれども人格を滅茶苦茶にされてしまった子どもたちに向かって、そんな傲慢なことは言えません。

僕はたまたま、そこに生まれなかっただけだから。

 

何が何でも(加害側になっていたとしても)生き延びようとすること自体、「人」の部分そのものを否定することは、できないと思います。

生きのびようとすることは生物として当たり前で、誰も悪くない。命を得たものとして自然なことです。

 

再三申し上げますが、加害行為を肯定しているのではありません。

罪は罪。本人の生い立ちに責がなくとも、罪には責があります。

 

冒頭の文章を投稿した視聴者の方がどんな環境にいるか考えるのは邪推ですが、

こういう「これは自分のことを言われているのではないか」という思考が染みついている人の中には、

保護者や生育環境において「我々を大切に思うならば、言外の意図をくみ取れ」と強いられていた人も当てはまりやすいと思います、個人的には。

要は親の機嫌を取るため(=生き延びるため)には言葉にしない部分こそが大事で、

それを先回りして相手に満足感を与えなければならない、奉仕しなければならないという生存戦略を形成せざるを得なかった人々。

 

自他境界が曖昧で、だから自分のことを言われているのかどうか本人ですら判然としないのです。

(「トレパクしてないのは本人が一番分かっている」という意見は確かにそうですが、「自分の判断を信じるな、我々の言動や仕草から”正解”を探し当てろ」と教育されてきた人にとっては「他者の言葉>自分自身の判断」なので、

「自分はそうではないつもりだったが、好きな人がそう言うなら自分が間違っていたかもしれない」と思い込みます。

一般的に健全に生きてきた人々にはおかしな光景かもしれませんが。)

 

自他境界が曖昧な人は生存戦略に従って「それはきっと私のことだ/私のことではない」と判断します。自責感が強い人は自分のせいだと、他責感が強い人は他者もしくは他の要因のせいだと思い込みます。思考の流れは両者似ています。

 

 

生まれる場所は選べません、残念ながら。それは自身の親に殺された/子に殺された事件等々を見れば無論と思います。どんな対策もしようがありません。

 

 

周りに傷つけられている気がする、というのは他者から見れば自意識過剰、被害妄想と一蹴されるのですが、本人としては殺されないための思考パターンなのでどうしようもありません。社会的視線に対する侵襲反応とも言うべきでしょうか。

しかし一方で「それは被害妄想」とするのが社会の多数派で”健全”な思考なので、

親元や元いた場所(あるいは今現在いる場所)を離れてこの生存戦略を徐々に捨てる、軌道修正する必要があります。

社会に受け入れられたいと思うのならば。

 

ただその過程で、過去の生存戦略に縋っていた自分を否定はしないでほしい…というのを老婆心ながら思います。

だってそれはあなたが生き延びるために大切にしてきた鎧であって、生存したい殺されたくないとあなたが思ったことはごく自然なことだからです。

 

 

ついでにいうと、上記サロメ嬢の「怖い」という反応に少なからず傷ついたとして、

その傷ついたあなた自身(「人」の部分)は何も悪くない、

ただ与えられた環境や無意識下で育てた生存本能から出た言葉(「罪」の部分)が人を傷つける可能性があるというだけです。

だから「罪」の部分をその場に置いて、粛々と別の方法を模索するしかありません。それは過去の蓄積を切り捨てるようでとても苦しいけれど。

 

(良かれと思って「病院に行け」と言うとキレる人も、生存戦略の否定=個人存在の否定と捉えるからです。死ぬような思いをして生きてきたうえで「あなたの生き方は人として醜い、ありえない」と言われたように感じる、という思考パターンでしょう。僕も多少感覚的にそう感じます、今は理性でその感覚を否定しています。)

 

 

その社会的に誤りとされる生存戦略を「矯正」して社会に受け入れられるか、ありのままを生きて社会的な死を突きつけられる(≒誤った生存戦略により淘汰される)か。

どちらを選択するかはあくまでも、本人の意思の下にあると思います。

本人が意思表示できない場合はなんとも言えませんが、他者が彼らの存在価値を「社会的・客観的に定義」することは押し付けでしかありません。

 

(もちろん本人が意思表示できない場合の諸々の判断は、家族や後見人がしているでしょう。それらについては仕方のないことだと思います。その方法以外で本人を尊重する術が無いから。)

 

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~僕個人の話、終わりに

 

上記に色々書いたことを自らに素直に当てはめれば自己肯定感が高まるかもしれないが、敢えてそれはしない。

通院はしているし良くなったり悪くなったりだが3年目くらいだし限界も見えてきて、僕の生まれ持った本性には罪があるものだ、と抱えて暮らしていくのだと分かった。

 

僕は本当は社会向けの人格を被ったり薬を飲んだりしないと人間にはなれない化物で、でもそれを仕方ないと今は思う。

生まれてしまった以上、他者に危害を加えず家族や友人を不幸にしないようにしていきたいと考えている。

 

自分のような人にはそうありなさいと言うつもりは全くない。僕は人間が嫌いなのでこういう思考で孤独死しても問題ないが、

人と関わりたい、幸せになりたい、心穏やかに生きたいと考えている人に強いるには、酷な生き方だと思う。

 

 

ただ僕自身においては、本当は化物であることは永遠に変わらないです。

人間の形に矯正してくれた社会、周囲の人々には感謝しています。当たり障りのない仮面というものを知ることができたから。

化物に生まれてしまったことに罪はないと思いたいですが、どうでしょう。

せめて行動による「罪」を重ねないようにしていくつもりです。

 

 

 

以上です。

 

https://www.nicovideo.jp/watch/sm5209167