壁打ち

感想、考察、日記、メモ等

20240208(愚痴、自己責任、グレーは正しい、見えるものしか見えない)

愚痴です。

 

 

 

脚本家(及び脚本家団体)、テレビ局、出版社が民衆に誠実性を演じて同情を求めている。

おおむね、業者特有のマニュアル芝居とキャッチコピーのようなお気持ち文章。

 

それが本当の気持ちかどうなのか、もう見定める気力もないですよ、少なくとも僕という一般人にとっては。

 

これからのキャリアを考えて潰しの利かない状況を避けるための手段にしか見えないんですよね。それが本心であっても。

そういう疑心暗鬼に陥らずに受け止めるくらいの馬鹿だったらよかったけれど、この時代では妙に賢しくなってしまった。

 

結局この疑心暗鬼でまた死人が出たら、僕は罪悪感に駆られるだろうか。

もしくは「ほら!また犠牲者が……」と芝居をする業者や団体に呪詛を向けるだろうか。

 

 

だから、もう疲れました、という時は「全員切る」。

僕はもうテレビもドラマも見たくないし、いちいち作品の作家性やどれくらい”手が汚れていないか”チェックしてからさあ作品鑑賞、という気分にもなれない。

全てをシャットアウトする。

 

現代は娯楽が多いからこういうこともできるが、手が汚れてそうなものが次々に見つかっている今、いっそ何もしないで寝た方が誠実なのではと思えてきた。

 

 

よくある、この企業は○○国の粗悪な労働環境で生産されている商品を売ってるとか、戦争に参加している国を支持しているとか。

そういうのを消費者が一つ一つ個人で見定めなくてはならなくなった。

 

「知らなかった」というのも、まあ言い訳にはなる。知らねーよとも。

そしてそういう態度を断罪する人々、お前らも協力者なのか、非人道的だと糾弾する。

 

そうですね。ところであなたたちは普段どんな生活をしているんでしょうか。

生産者が選べるほど金銭的、心理的な余裕があるんでしょうね。もしくは自分が生活困難になっても廃人になっても、この世界の平和を願っているんですね。

僕もそうなるべきだった、いやこうやって無駄にあらゆる資源を消費している僕自身が社会的に存在してはいけない廃品なんだ。今すぐ死ぬべきだ。

 

 

そんなこといちいち考えて生活してたら頭おかしくなる、正直。誠実に生きたかったから以前はいろんな話を聞いて僕も考えた、僕なりの答えを出して決めていた。

結果的に、上に書いたように僕という存在自身が一番要らないと気づいたから、最近は投げやりだけれども。

(僕は家族のために生きている。家族の人生に汚点を残すわけにはいかないからまだ自殺していない。)

 

 

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でもさ、もう金もないし頭は狂ってるし、実際あと何年生きられるか分からないって毎日思ってるんだよ。

どうやったら死んだ時に家族に負担なくできるか、法的な部分はどうか、何か残すべきものはあるか、どのタイミングが最適か。そういうのを日々頭の片隅で考えながら過ごしている。

 

親はボケて自分のことを忘れるか、ヘルパーの一人だと勘違いするようになるのかな。あるいは「私はあなたたちの子どもではないですよ」と暗示をかけるしかないのか。

兄弟は結婚すれば僕がいなくなっても心の支えになってくれる人ができるかな。

そんな不謹慎で不孝なことばかり考えている。

 

 

そう考えながら自分の生活をやっていく。

本当は苺食いたいな、でも高いしけれど農家の方々は光熱費やコストや手間込み込みでこの値段にせざるを得ないんだ。

小売も色んなスーパー見てるけどだいたいこれが相場ということは、変にぼってる訳でもないんだろうな、知らんけど。

 

そもそも菓子パンやお菓子が~200円くらいなのになんで生鮮はこんなにg単位がたけーんだよ。体にいい食事を!とか言っておきながら、これじゃなにも食えないよ。

今日食うものを、食うべきものを判断するだけで頭が一杯になる。

国は配給食とかペットの餌みたいな栄養食でも配布してくれないのか。

 

趣味を削って健康にコストを振ればいいのか?そうはいっても、ここ数年の高い買い物は一人暮らしの家電とPCぐらいか。知れている。

それに明日、どことも知らんじいさんの車にはねられて死ぬかもしれないのに。

そもそも、区切りの良いところで死のうと思っているのに。

 

低賃金な俺が悪い。もっと稼げばいいんだ。俺は正社員を辞めたんだ。

どうして辞めたか?精神が破壊されたからだよ。だから精神がこれ以上破壊されないような生活を送ってるんだ。

精神が破壊されるような俺が悪い。精神が破壊されない程度の生活しか送れない俺が悪い。

 

 

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上述の組織の言い訳合戦みたいなものも、自己責任論や個人主義、競争社会が生んだ得体の知れない存在が原因だと思う。

責任がどこにあるか分からない組織、いや誰も責任を取らない組織。政治を見れば一目瞭然でしょう。

 

本来は「だれが」責任を取るかが100%重要という訳でもない。一つの問題に関わった人間はたくさんいるから、どんな偉い人間でも責任を一人で背負うというのは本質的には無意味だ。だってその偉い人が消えたらその問題はチャラになるのか?

 

ただこの自己責任で生きのびろ!という社会になったせいで、個人は環境やら貧富やらいろんな問題を「だれがどう責任を持つか」という裁量でしか判断できなくなっていると思う。物事を個人単位で帰結するものと信じてしまう。

 

 

「責任を持てます」というのは信頼できる証であるが(信頼の前貸しともいえる)、実際のところ進んで責任を負うような奴はいない。

その場合に人間の集まり(組織、企業、団体、クラスタetc)は組織という「総体」に責任を負わせることもできるし、特定の所属個人を人柱にして切り捨てることで総体にこびりついた「汚れを切除」することもできる。

 

一般人(その業界に詳しくない人々)は内情を知ることができない。

というか、個々人が他人を理解できないのと同じように、全てがつまびらかになることなどはあり得ないと思う。

結果SNSで目撃された「業界人」の発言を基に考えたりもするが、それはあくまで個人単位の一ケースでしかない。しかし結局、声のでかい業界人と情報を拡散する「社会の総体」になった一般人達が正しさを拡散する。多数決で。

 

「ペンは剣よりも強し」が本当になって、でもその言葉の意味は全く変わってしまった。ペンは誰でも持っていて、剣よりも入手し複製しやすく、人を殺しやすい道具だ。

 

 

客観性を求めれば求めるほど、泥沼にはまるように感じる。そして二者あるいは複数の意見の中で、自分の考えというのは引き裂かれる。

 

白黒はっきり、はよくないとされている、だから自分なりのグレーを見つけ出そう。

しかしそのような柔軟性やグラデーションを己の中に含有し続けることはとても難しい。

 

僕はもう30年生きてガチガチに固まってしまった。どれだけ柔軟で寛大で、かつ冷静さを失わずにいようと努めてもダメだった。

固まってしまった自己は柔軟性が無いのでバラバラに引き裂かれる。それぞれの意見を支持する自分の分身が殴り合いを始める。俺が一番正しいんだ、「正しいグレー」なんだって。

 

 

もう疲れたよ。誰も信じない方がよっぽどましだ。

昔小学校の先生が言っていた、人は一人では生きていけないと。衣食住やインフラ、それらは全て他の人の存在、社会があるから生きていけるんだと。

 

正しいと思う。でも社会は僕を侵食して破壊して、どこまでが自分だったのか分からなくしてしまった。いや、僕が悪いのか、ははは。

苦しくても一人きりで死んだ方がましだ。

 

 

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大切なことは目には見えない、と言った。星の王子様のキツネが。

文字だらけの世界で、大切なことを見失ってしまった、そしてそれはどんどん埋もれていって喪われてしまうように思う。

 

見えるものしか見えない。汚い、本音と建前が反発しあった爆弾。キラキラしたコンテンツと紙一重で見つけてもらえなかった星屑。何かに憑りつかれた人々。何にも憑りつかれていないと過信する人々。カメラ、カメラ、人々の目。

 

僕は見失うだろう。希望を持った、生存できる力を持つ人たちは美しいそれを見出すのかもしれない。そういえばゆとり教育で言われてた「生きる力」ってこれのこと?

 

ゆとり教育に染まれなくて本当に残念だ。おかげで生きる力がからっきし無くなってしまった。どうぞ生きる力が豊かな皆さん、生気を失った僕の分までパンを分け合って末永く生きてください。

 

生きたい人たちにリソースが生きわたって、不自由なく幸福に暮らせますように。

 

 

自分が言うとすごく気色悪く思われるかもしれないけど、この世に生まれてしまった生き物は人間含めて、できる限り苦しみの少ない世界であってほしかった。

 

 

 

 

 

僕は、人間ではないので。

以上です。

 

 

 

 

amazarashi/ 性善説

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