壁打ち

感想、考察、日記、メモ等

20240206(実質賃金という語を知った、多面的な個人、通院と私生活)

twitterの治安。治安と言うか、傾向が変わったというべきか。

 

「実質賃金」という単語を初めて知った。これは今日僕がツイッターで知った言葉。

見た目のうえだけでなく、他の指数も鑑みつつみた賃金の推移のことだと思う。

何となく表面をさらってみて、まあ悪いんだろうなと思った。

 

(因みに僕が社会人として働きはじめたのは10年弱くらいで、実質賃金というもののグラフが停滞していた期間しか知らないらしい。

豊かさを知らないという意味で、つらさが増さないだけマシなんだろうか。)

 

 

詳しく調べたり勉強する気力はない。

景気がいい人は景気のよさそうな統計を、景気が悪い人は景気の悪そうな統計をみるだろう。その程度。

 

国も企業もメディアもSNSも、数字や調査の結果について誰も責任を取らない。だから解釈も自由だし、信頼度も個々の目分量という気がする。

 

生息地や生存戦略が違っているだけで、皆食っていくために頑張っているだけだし、多分そういう生き方しか知らない。

 

 

今よりずっと昔のtwitter

流行っているジャンルで学級会が起こる頻度は週に1回くらい、

芸能ニュースや政治の話は大して流れてこず、

 

何なら個々人のツイートばかりで(他所の記事や映像へ飛ぶことなく)リンクやタグも少なかった気がする。

短縮リンクというか、リンクが文字カウントされなくなったんだっけ。記憶が曖昧だが、技術的に貼ることができたとしても今でいう爆発的な「バズ」感はなかった。

 

トレンドもなかったのでFF伝いに診断メーカーやDecotterが流れてきて、

自分と似たジャンルやネタを見ている人たちは隣人という感じだった。

 

 

今は隣人なんて探さなくても「好みの界隈」を見つけることはできる。

好きな人を何人かピックアップして、その人のフォローしている人を見に行けば似ている人がいる。会話を眺めて同じ空気を吸っているような気分になれる。

 

でもそれは自分が外野から観測しているだけなのだ。あとから会話に参加したとて、よそから来た人という印象というか、隔たりは消えない気がする。

それは狙って「幼なじみ」をつくることができないのに近い。

 

 

週に一回だった学級会は、

政治・国際・芸能etcそれぞれのジャンルで、毎日のように小爆発を繰り返している。

 

皆ひどく疲れて見える。疲れていると思う。

でも誰もそれを楽にしてやることはできないのだ。twitter上での情報は個人どころか大きな組織ですら抑えることのできないうねりとなってしまった。

 

 

一つ気付いたのは、

(あくまでも自分の尺度ではあるが)暴力性や他害性を厭わず傍若無人に振る舞うアカウントをつくると、個々の問題に対して感じる「痛み」は鈍くなるということだ。

 

いっそ自分も倫理観や社会性を投げ出してしまった方が、SNSに流れる現実の社会の苦痛から逃れることができる。

というのは少し違っていて、痛みから逃げているのではなく皮膚が固くなっただけだ。

少し表面の強度が増しただけで、そのアカウントという仮面から離れてみると確かに痛みを感じる。

 

SNSでよく見かける「何にでも噛みついてリプを飛ばしまくるアカウント」とかだと、黙っているより言葉を投げつける方が痛みが和らぐんだと思う。多分。

FF外から失礼します、という言葉が喪われた世界。

 

 

隠してばかりはずるいので僕の「攻撃力の高い」アカウントの傾向を述べると、

基本は壁打ちや自分語り。自分語りが多いのはここも一緒だが、ここでは躊躇するような言葉(NGワードや蔑称とされる昔の単語、汚言等)が出てきたり。

 

他人に対して直接リプはしない。

いわゆる「お気持ち表明」、何らかの内容に「言及」はたまにする。

 

自分の中でライン越えしないギリギリのところの大喜利。それこそ「昔のインターネット」で頻繁に使用されたが今は使わない方がいいとされる単語とか。

嫌味とか。

 

あとこれは実際の社会的存在の自分と周囲の人々を守るためだが嘘、情報の誇張表現や非開示。

こういうのは現実世界でもやってる人はいると思う。僕は現実世界では人とあまり会話しないので、不要……

 

そんな感じ。飽きるか怒られるまでやるか、守りに入ったらやめようと思う。

実際このブログもかなり「守り」の時期に来ていると思う。もうすぐ一年らしい。

 

 

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まあそういう垢分け的な話にも通じるが。

Vtuberの転生先をたまたま知って、というか僕は以前にその人を何回か調べてその度に忘れるほど興味が無かったのだけれど、

今日改めて検索してみたりして、なぜか落ち込んだ。

 

その人の一面しか知らない自分は馬鹿だったんだろうか。

その「一面」と向き合ったとてたかが一面、氷山の一角なのだから。

いや、そういうのもおり込み済みで今までVtuberや実況者、ツイッタラーを眺めてきたつもりだったけれども。

 

「複数の人格」を横断して見た時、自分が相手にした心配も感謝も、

それはもちろん一方通行であることは弁えているが、

一方通行以前にまるで「そう思ったり感じたりすること自体」が無意味だったような気がして、途方に暮れた。

 

僕が「人格を所有する側」だったら平然と、そんなことないよと言う。

 

先述したように、僕はいくつもアカウントを持っているタイプのインターネット中毒者だ。もしそのうちの一つのアカウントで誰かと仲良くなったり、なんとなくいいね(昔でいう「お気に入り」)を返し合うようなことをしたりして、

そういうやりとりは他のアカウントを知らなかったとて、無意味になることはない。

それはそこのコミュニティ内だけであったとしても痕跡として残ったものであるし、その一人格から自己の総体へと伝播していく、と僕は思っている。

 

だからそういう気持ちは、良くも悪くも「中の人」の核心の中へ吸収されて受け取られていく。

と思っているはずなのだが。

 

人によってはそうじゃないのかもしれない、と感じた。

その人にとってはただの遊びで作った仮面で、仮面を割った翌日には全てがおぼろげな思い出に変わっている、とか。

まあ、それはそれでアリだと思う。

 

まだ生きて、なんとかやっているようであればよかった。そういう無責任で無力な言葉しか出てこない。

 

 

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通院。

先生と現状の共有、そしてそこから導かれるベターな判断が一致していてよかった。

要は現状維持なのだが。

副作用と使用上限の点からみて、これ以上増やすこともできるがリスクもある。

薬を増やすたびに色々悩まされてきた(それでも軽い方だと思う)ので、まあ増やしてもいいことはなさそうなのは予想がついた。

 

薬を使ってもやぶさかではないという現状である、

ということを僕自身が受け止めて日常を過ごすということだ。

 

しかし、良質な睡眠の確保・適切な量とバランスの食事・適度な運動という単語ほど虚しいものはない。

それができなくてこうなっているのだから。

 

そうやって開き直ったりのらりくらりかわすな!ということだが、体が動かないのだ。本当に。

脳内の教官然とした自分が「もっと休め!気楽にやれ、休憩しろ!飯をバランスよく食え、間食はしすぎるな!早く寝て起きろ!運動しろ!」と言ってくるが、

それをすべてやれというのは矛盾していると思う。

 

蟻と象が会話するくらいかけ離れている。

 

 

 

 

 

 

ゲームはできる。ゲームしかできない。

以上です。

アルセウス図鑑研究ポイント:95560pt