自分は充分恵まれている前提で、他者への悪意はないことだけ先に言っておきます。
僕が真に悪意を向けるのは自分自身のみだと認識しています。
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自分は何なんだろうと思う。
ピクミン2のルーイっていわゆる我々ゆとり世代を揶揄したように見えるけど、
発売当時我々は小学生だった訳で、「無気力な若者」は昔からいたのだろう。
僕は子どもの頃、ルーイのようになってはいけないのだと思った。彼そのものは嫌いではなかった気がするけど、社会には受け入れられないんだと思った。
若者は慎ましく上の者を尊敬し、彼らが快適に仕事ができるようバックアップしなければいけないものなんだと思っていた、と思う。当時も。
僕はいまだに子ども気分で、
大人(=社会)に怒られるとか、大人(=周りにいる人々)を不機嫌にしてはいけない、
心地よい存在でなくてはいけないと本能的に体が動いてしまう。
「子どもの僕」はいい子を目指して、まあいい子でいなくていいという言説を聞いてからはいい子ではなくなったが、
なるべく誠実でありたいと思うような心の持ち主だ(とされている)。
「残りの素の僕」は社会に反していてみっともなくて汚ならしく卑しい、できの悪い部分。
人の心が察せない、そのくせ「察しているように振る舞う」のが得意な擬態人間で、
たまに雑談の話題や会話のテンポを間違えてそれが露呈する。
ゆとりの中でも特に、教育の生んだ産業廃棄物だと自認している。
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某投げ銭交流サイト(?)で僕のコメントが弾かれてしまった。規約違反。
他の人の依頼文を見ながら失礼のないようにしたけど、ルールすら守れなかった。
ひどく落ち込んだが、それも仕方ないと思った。多分人間のふりをしている産業廃棄物だからだろう。
どうすればいいかわからなくて、諦めた。人の心がわからない。
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子どもの僕は両親が「子ども連れの家族」という形態をとるために必要だっただけではないかと、最近よく思う。
もしくは、本当は僕じゃなく生まれるべき兄か姉がいて、宇宙人の僕がその場所を奪ってしまったのではないかとも。
だから、僕の存在意義は今まで「子ども」という属性を持つからこそだった。それ以外は不要なものだ。
ずっとそんな思い込み(または真実)が頭から離れない。
今も家族は僕に家族として接してくれるが、僕が本当に受け入れられないのは僕自身だ。
結果的にここまで生きて「子ども」という役割以上の価値を世界の中で見いだせなかった。なら、
最初から僕の人生は存在すべきではなかったのではないか。こんな歳まで生きて今更だけれども。
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これからなんとかすればいいじゃないか、と思えばいいのだろう。
過去や環境はともかく、人生はお前のものなのだから好きにやればいい。という説もある。
でも心の中の自分自身がそれを許さない。
これからは人との関わりを少しずつ、閉じていかなければならないだろう、お互いのために。
家族は守る、ここまで人でなしを人らしく育ててくれたのだから。
みっともない自分を嫌悪している。しかし自分からは一生逃れられないんだ。
同情をかってほしいと言わんばかりの文章で恥ずかしいが、とても落ち込んだので書いておくことにした。
他者に同情してほしいとか、何かしてほしい訳ではない。
強いていうならこの自分自身という人間の視線から逃れたい。
いじましい文章でごめんなさい。
そんな感じです。