※筆者は宗教学者ではありません。また特定の宗教に属してもいません。
今回の記事については日々の連想に基づくものであり、すべての内容が宗教的内容に関するものでないことを記しておきます。
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「13番目のユダ、裏切者のユダ」について、最近よく考える。
というか、何か連想するものに触れる機会が多いというか、なんかそういう時期なのかもしれない。
例によってブラスフェマス2をプレイしている。
序盤に手に入る(多分一番最初?)彫像は「裏切り者」だ。背を向けたデザインの、このモデルはおそらくユダなのだろう。(あるいは、それに類する人物をモチーフとしたゲーム内の人物がこれから登場するのか。)
※因みに全武器の物理ダメージを上げる有能装備。
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それと、最近読み返した西岡兄妹『神の子供』。
作品全体に、聖書やキリスト教関連の内容が散りばめられつつも現代の凄惨な犯罪を描いたような内容で、冒涜的ではあるけれども「悪魔としての美しさ」を体現した青年の一生、の話だと思って学生の当時は読んでいた。
(ただ他作品より現代社会の描写が色濃いので、「母の胃の中で育ち、生まれた」シーンでどうしても引っかかる感じがしていた、昔は。
最近の感想として思ったのが、それ(母の胃で育った)は完全なる事実の描写でなく、彼の心象表現というか、彼が己の人間としての一生を俯瞰して語った際にそう描かれるのが適切だったからなのか、とも思った。正解があるかは知らない。)
その中で裏切者の少年が出てくるのだが、なぜか今回読み返して強く印象に残った。彼は復讐のために裏切るのだが、僕は復讐の話が好きなので、単にそこに反応しただけだろうか。
主導者であった主人公を殺した少年は、死体はどうする?とかつての仲間たちに問われた時、決然と言う。
「豚に食わせろ」
豚の餌となった主人公が、悪魔の再来を予言するようなモノローグを残して物語が終わる。あとがきにかえて、と聖書の一節(悪霊レギオンに関する記述)が引用されている。
僕は、今読んでみてのごく個人的な感想だが、この終わり方に「報いに近い救い」を感じている気がする。
主人公は悪を体現するために生まれてきた。だからきっと、裏切者に殺されて虚しい最期を遂げるのが至高の末路だったのではないか。
おさまるべきところにおさまった、というか……。
(決して、悪が成敗されたからよかったという意味ではない。
悪と善は循環していくものだと僕個人は思っているし、正義(特に、絶対的正義)を妄信している人間はかわいいとは思うが好きにはならない。
僕自身、正義的信条は持ちたくはないが「誠実さ」に拘る以上は、何らかの正義を信じていることになるのだと思う。)
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だから僕は、ユダが裏切者であっても、熱心な弟子である(あった)こともまた事実として両立すると思っている。
然るべき最期へ導く存在として。
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これは、モチーフとしては「走れメロス」なのだと思う。僕は今日聴いたばかりで、まだかみ砕いて解釈できている訳ではないけれど。
なんとなく聴いたとき、「ああ、これは裏切りによって襲われても、相手を抱擁する存在のことか」と感じた。勘違いかもしれない。
実際じっくりMVと曲を観ながら聴くと、違ったようにも感じるし。
あの日 ぼくが手を組んだ
みにくく つよいものたちと
あの日 ぼくが手を切った
ひとりの ひとりのともだち
僕はどうしても大きく多人数のコミュニティよりも、少人数できれば1対1の関係性に価値を置いてしまう。
(大きなコミュニティ、組織は必ずしも悪とは限らないが……)
僕は新約聖書についてはあまり詳しく知らないが、ユダを憎むことができないであろうとは予想がつく。
襲撃 ぼくをだいて ひとこと
わるくおもうな、と
それだけで いいのに襲撃 そして 息絶えるまで
見下ろしてくれ
涙も こぼさないで
憎らしいほどいとおしいとか、愛しすぎて破壊したいとか、これ以上嫌いになりたくないとか。
「集団」、それは社会であったり組織であったり仲間内であったりするだろうが、
「集団」はそれを否定し糾弾するだろう。身勝手な行為であると。
けれども双方の間に流れる感情は憎悪だけとは限らない、と思いたい。それなりの事情や背景や経緯があり、それはお互いの中でしか共有されていない。
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そして裏切りが遂行されたその時に、互いに何か閃くような必然を感じたりするのではないだろうか。
そういう部分にばかりロマンチシズムを感じてしまうのは、社会不適合者なのかもしれないけれど。
そんな感じです。