お盆休みで帰省などをしていた。何もしていないに等しい。
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両親は昔よりも優しくなった。僕の話をよく聞いてくれるし、お客さんのように色々もてなしてくれる。
ありがたく思う一方で、この愛情は今の自分ではなく過去の自分が欲しかったものなのではないかと思った。けれども今の両親は今の僕にしか会えないから、受け取るのは今の僕だ。
この愛情は本来、僕の子ども(両親にとっての孫)や、あるいは両親と折り合いをつけながら同居していた過去の自分に与えられるべきだったものを、
今の自分がただ乗りしているのだ、と罪悪感を感じた。
僕は人生の節目節目、就学前と小学生時代、中高生、大学生、社会人…というようなタイミングで自分が分離していくように感じていて、全く異なる人物のように感じる。
記憶はあるけれど、それが「=今の自分」とは感じることができない。
自分はその時、一度死んでしまったのだと表現するのが一番近い。
その場所に留まることを許されなくて、あるいは自分自身で限界を感じて、
自分を捨てていくように。
だから価値観やよいと感じるもの、好きなものも少しずつ変化していく。しかし根底は一貫していて、幼少期に好きだったものの名残をふと感じたりもする。
でも「それが好きだった」という感覚は、既に他人事だ。
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今回の帰省で、少し昔集めた漫画などを読み返した。
僕は一部の印象的なシーンを除いてストーリーの大筋すら忘れてしまうような頭なので、昔この本が好きだったというのがピンとこなかったりする。
好きなシーンは、まあおおむね記憶と一致しているが、脳内で改変されていることも多々ある。
こんな恐ろしい漫画を読んでいたのかとか、こんな身につまされる話を特に何も引っかからずに読んでいたのかと思うものもあった。
特に舞台が現代的日常である漫画だと、ノイズというか暮らしの細かい憂鬱エピソードが脳裏にちらついて入り込めなかったりした。
(福満しげゆきとか好きなのだが、今回はちょっと怖くて読めなかった。)
「生きる苦しみ」は過去の自分も同じように感じていたと思う(自分はここにいるべきではなかった、人の気持ちが分からない等のメモが見つかって驚いた。今感じていることを過去から詳細に言い当てられているようだったから)。
特に一人暮らしをしてからは「生活の苦しみ」を知ってしまったということかもしれない。個人的には「一人暮らしの苦労を知ったからよい、成長した証だ」という話とは別な気がしていて、
現実と架空の話の切り分けができなくなって(生理的な拒否反応を示すようになって)、楽しめる物事の範囲が狭まったように思う。
今読むと感覚が違う作品は実家の本棚にたくさん眠っていそうだ。「読む行為」のリハビリがてら、それを読み直そうかと思っている。
今回実家から持ってきた作品については別記事にして書きます。