言葉を発さず、頭の中で考え事をしていることが多い。
一人暮らしをすると独り言が多くなるとよく聞いていたので、自分はどうだろうと半ばワクワクしていたのだが、一人暮らしを続ける今もほとんど喋ることはない。
何かを見て笑ったり、ゲームで落下したりすると「ア!」くらいの叫びは出るが、思考を整理するような独り言はついには生じなかった。
======
しかし一人暮らしよりもっと前から僕を支配する言語がある。それは「脳内語」という感じで、自分の発話とは別に思考する用の言葉が存在する…という感覚がある。
本当は口に出したい本音を飲み込むとかとまた別の、ちょうど上記の「思考整理のための独り言」に近い気がする。
発話と違う特異な点は、言葉遣いが一定でなく、感情やその時の「自身のスタンス」に沿った風になる。その出どころというのは、僕が映画の登場人物や漫画のキャラクターから「もらってきた」方言や口調だ。
それはまた性質上、表に出すと叱られたり否定されたりする(した)言語や態度であることも多い。例えば…自分の出自と異なる方言をわざと使うとか、社会悪的な集団がよく使用する言葉遣いをするとか。
僕は昔からどこか芝居がかったような性質だったのだと思う。よく本やテレビで見た何かを日常的に模倣(それは言葉だったり、悪ふざけや遊びの仕草であったり)していたのだが、勿論そういう場面でない場所でやって、ふざけないでとよく叱られてもいた。
子供のしつけの場面ではよくあることだと思う。悪い大人や兄弟たちのいたずらに乗っかっていて叱られることで、子どもはそのラインを理解する(あるいは、理解したふりをするスキルを手にする)。
僕はだんだん「表に出してはいけない言語と態度」のラインを読み取れるようになった。しかし本質的に、僕は反省していないのだと思う。それらの言葉は脳内に蓄積し、時に自分の態度を映すようになった。
======
難しい書き方をしてきたが、それほどまじめな話ではない。僕の脳内語はマイブームのように過ぎ去っていく、軽々しいものだ。
最近だと、例えばBloodborneのアイリーンやFGOのドレイクのような「~さね」とか、姐さん言葉。社会性を保つために重い腰を上げるような時、あるいは社会に対して冷笑的な諦めの態度(それは人間の愚かさに対する愛情の時もある)を示す時にあらわれる。
”多少嫌な思いをしてでも、メシのタネになるなら働くしかないのさ。それが人生ってもんさね”
”悲しいかな、大人ってのはもう性格が捻じ曲がっちまうと、どうしようもない。手前のやりたいようにしか動けないもんだよ。アンタのしたいようにしな”
また例えば直近だと、忍者と極道を読むうちに惨蔵の口調が移ってしまった。「~じゃ喃」というやつだ。本を読んで「乗り移って」しまったときは、しばらくの間その口調が幅を利かせ、思考までそちらに寄っていくような感じがある。
だから今僕の脳内には、ちょうどジジイとババアの人格が同居している(?)ような状態だ。
======
かなり根深い脳内語というか「脳内方言」は、一時期北野映画やその他諸々で聞いた西の言葉だ。僕の知人に関西弁やその他方言を頻繁に使う人はほとんどいないので、完全に僕のは「エセ」方言の部類に入る。しかも治安の悪い使い方をするので(無論、そのエリアの人々の治安ではない。僕の頭がおかしいだけだ)、ほとんど全く口には出さない。
西の言葉にどこかしっくりくる感じがあるのは、僕が道民かつ道南の親戚がいるからかもしれない。家族曰く、道南の海側のエリアは「北前船」が来ていたから関西の文化が流入していたりするのだそうだ。(よくあるやつだと北海道の桜餅はほぼ関西派で、いわゆる「道明寺」。関東のあのワッフルのような形の桜餅を初めて見た時は衝撃を受けた。)
また東北圏がルーツの人たちも北海道に多くいるので、東北の方言もなんとなくニュアンスがわかる時がある、と思う。多分だが、東北辺りからきて北海道弁として確立しているものだと「せばね/したらね」(それじゃあね。会話を終わらせる別れ際に言う「それでは、また今度ね」が変化したものだと思う。多分。)とか。
僕には明確なルーツは無いのに、方言の方がより心理的に沿ったニュアンスの時もある。でもその方言は、僕のものとして身についているものではない「借り物」なのだ。
そういう時は口には出さないけれども、心の中で喜怒哀楽を表現する。自分のしっくりくる「脳内の方言」で。
そういう話でした。