『忍者と極道』の割れた子供たちのコードネーム、自分が名乗るなら「導師」がいい。という話。
利他主義を掲げながら、ある意味自分のイメージする「導き」をあらゆる人々に流布しようとしている。誠実でありたいと願えば願うほど、傲慢な部分が露呈する。
僕の願いと本質、両方を表すのにぴったりの名前だ。導師(グル)。
現実の僕は、できるだけ他人に不干渉であろうと努める。僕がよかれと思ってすることは、よくない場合があるようだから(僕はそれに気付けなくて、人を傷つけたり不快な思いをさせたりした)。
そういう抑制を失くして、自分なりの善意と悪意を200%に出しきったら、そんな感じになると思う。
(もちろん本職の方々がそうだとは言ってません。これは本家的にも当然の話ですが)
宗教的用語は慎重に使うべきものだが、僕は導師、グルという言葉の深さも知らない。そのくらいの浅さがいい。
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大槻ケンヂの参加したバンド「UNDERGROUNDSEARCHLIE」のアルバムに収録されている方の「Guru」が由来だ。台詞の入っている方。僕はこの曲が好きで、この曲で“Guru”、及び“伝道師”という単語を知った。
台詞の一つ、「伝導しよう」つまり唄う彼が我々に伝える…という風に聴こえたのだが、調べると歌詞は「伝道師よ」と歌っていた。
台詞の部分は少女達の痛々しく生々しい感情を、お前が伝えよ、と我々を鼓舞し呼びかけるものだったのだ。
血塗れの少女達を、粛々と奉り敬う。植物園の緑と血の赤、白いドレスが浮かび上がる夜。そういう情景が浮かび上がる、素敵な曲だ。
因みに近年発表された曲『ぽえむ』の歌詞「私の手が血まみれなのは気にしないでほしい」も好きだ(この台詞は曲全体を通した上での良さなので、ここだけ抜き出すのもいまいちではある)。“彼女”の前で不器用に、汚れた両手を背に回して隠すような姿が浮かぶ。
この曲ははじめしっくり来なかったのだが、何度も聴くうちにトランスするような恍惚感を(と言うと大袈裟だが)感じて、BGMで延々とループ再生していた。
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結局、自分勝手で自己都合なのだ。それはあらゆる人々に当てはまるのかもしれないが、僕は僕自身の自分勝手さが許せないでいる。
それが心の底から肯定できたなら。
そんな感じです。