イマジナリーねぎ姉さんと、その隣にいたかった僕
本編のねぎ姉さんがどんな人物であったか知った今(いや知る前からだけども)、
僕の中の「ねぎ姉さん」はただの僕から見た、自分勝手な妄想になった。
だから今から言うねぎ姉さんはあくまでも「イマジナリーねぎ姉さん」であること、本来のねぎ姉さんとは齟齬があることをご了承ください。
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僕はねぎ姉さんみたいな人と共になら、一緒に暮らしたいと思っていた。
僕のリアクションが薄くても、テンションの低い日でも、逆になぜか喋りすぎてしまうような調子の狂っている時も、ねぎ姉さんは変わらずにいてくれる。
(変わらずに優しくしてくれる、とかではなくてよい。ねぎ姉さんの在り方は僕の一挙手一投足ごときでは変わらない、という信頼感があれば安心できるという意味だ。)
ねぎ姉さんは「現象」のような人で、動じることはなく、目の前で起こる事象に対してあるがままに反応しているような人だと思っていた。
「はい」で全ての意味を包括できるような、それは肯定や理解や許容や、あるいは否定や抵抗や断罪や、ただの反応であったりするように感じていた。
どれだけ親しくなってもお互い依存しない、フラットな関係(そんなものを現実で実現するのは、とても難しい)。
脳直で会話して、会話が成立しているかどうかもよくわからなくても、そこに一瞬だけシンパシーのようなものを感じたい。
大切な人だから心配だ、気を遣う…みたいなのがなくて不干渉で、でもお互いにそこについてあまり気に留めないような、ある意味薄っぺらな関係性でいたい。
ときめいたり守りたくなったり、苛立ったり共に涙を流したりはしないような感じの。
一般的に「空気みたいな人」というやつだろうか。
かつ、礼儀や敬意めいたものを意識しなくとも、無意識のうちに悪ふざけの境界線とか、どつき合いの力加減とか、雑な立ち振る舞い?を共有しあっている関係性がいい。
ねぎ姉さんと黒姉さんは自然とそんな関係になっているような気がするので、とても羨ましい(ねぎ姉と黒姉の間に挟まって三人になりたいのではなく、二人のような関係性を持つ相手と巡り合いたい、という意味で)。
ただ一つだけ優しさを求めるとすれば、僕が死んだら泣いてほしい。
でも翌日には泣き止んでいて、三日後には僕のことなど忘れていてほしい。
現実の人間に求めるには、あまりにも極端で身勝手な話だけれども。
だからそんな人物像を重ねていたのか、「ねぎ姉さん」の存在をずっと覚えていました。勝手なイメージで。
そういう話でした。