壁打ち

感想、考察、日記、メモ等

20230408

明日が終われば、やっと選挙カーや街頭演説から解放される。

 

今回は精神的に限界がきたこと、今後も使うであろうことを考えて初めて耳栓を買ってみた。

 

僕の右耳は耳の穴が少し捻れて?いて、つけづらいけどかなり防音にはなった。

部屋で流してる音楽や動画の音量に気を付けなければいけないこと(相対的に音量を大きくしたくなる)、長時間つけると疲れることに注意しながら活用している。

 

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無職のときは選挙当日に、人々を眺めながら自分もその人の流れに沿って、淡々と投票するのが少し面白かった。

今は仕事をして対人ゲージは充分溜まってしまっているので、仕事終わりや休日は人のいる空間には居たくない。

仕事終わりに期日前投票をして帰った。

 

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「人間は一人では生きていけません。ある生徒が「一人で生きる」と言った時、先生はこう言いました。生活するための食べ物は?電気や水道などはどこから調達するのか?それらは自分以外の他者、人々がいるからこそ、得られるものなのです」

 

かつて、僕の小学校の担任の先生が言っていた言葉だ。それはそうだなと当時は思った。

そのこと自体に深い感慨や抵抗感など、何かを感じることはなく、ありふれた事実だと思った。

 

今その言葉を考えると、成人してもそれを信じ込んで生きるのは、少し教育的な理想主義だと思った。

先生の言うとおり、人間は一人では生きていけないだろう。また、子どもにそう教えることはとても大切なことだろう。

 

しかし人々が集まったところで、必ずしも生きてゆけるわけではないと、僕は思う。誰かが騙されたり食い潰されたりすることを含めて、人は一人では生きてゆけないのだと厭世的に思っている。

 

(僕は当然食われ、消費される側だ。

悪名高きゆとり世代に生まれた、その中でも心身ともに底辺を生きる塵芥だから、これから生存していく人の邪魔にならないように食い潰されてゆくことを生きがいとしていくつもりだと、意地になってふて腐れている。

それがゴミクズの矜持だとも思う。)

 

でもその「“人は一人では生きていけない”という言葉の多面性」を「教育」の枠組みの中で教えるのは難しいし、そもそも僕とは意見の対立する人々が世の中にはたくさんいるだろう。

「人は一人では生きていけないから、どうすればいいのか」は、各々が考えたり思い知らされたり何かを信じたりして、答えを出すしかないのだと思う。

 

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たくさんの人が集まって、投票して、政治を執り行う人々を選出する。

とても合理的だと思う。

 

でも僕は本当は、自分をいないものとして扱って欲しいから「選ぶ」のは本意ではないけれど。

 

選挙権を持つ者として、それを行使しなければならないから、選挙広報に目を通し誰かに入れる。

人間らしき生物として存在しているだけで、人間社会の一員にならざるを得ないから。

 

人間のふりをしている。