壁打ち

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Bloodborne「啓蒙」の個人的解釈と曲二選(ピノキオピー「たりないかぼちゃ」、きくお「君が死んでも許してあげるよ」)

Bloodborneプレイしました。面白かった。

 

ここでは「啓蒙」の概念について、個人的に解釈した内容をメモしておく。忘れそうだから。

 

 

啓蒙とは

啓蒙とはざっくりいうと、一般市民に知識を授ける行為だ。これはゲーム内の意味だけでなくこの単語自体が持つ意味だ。

 

Bloodborneでは、上記の意味の他に「上位者及び神秘的事象、及びそれらに触れた人間から授かった知恵」としての意味を持つと思う。

そしてそれは「瞳」及び「見る行為」によってあらわされる。

 

例えば、自ら「見る行為」を閉ざしている者。ガスコイン神父、デュラ、やつしのシモン。かれらは単に恐ろしいから目を隠しているのではなく、「獣化または狂気に陥ることを防ぐ」実戦的な目的があっての装備なのだと思う。

彼らはまた、医療教会に与することを拒絶したはぐれものの狩人だ。狩人として戦ううちに思う所あったものは、目を隠すのだと思う。

発狂耐性高めの装備を目指すと、自然とデュラ装備に近い構成になるのは切ない(彼は狂った街の人々を目撃しながらも、自身は発狂せず獣化もせず守ると決めているから)。

 

 

難しいのは「獣化」と「高啓蒙による発狂」に対立関係があるか、ということである。個人的には「相関はあるが、完璧に対比された位置にはない」と思う。

その辺りはまあ、体質とかによるんじゃないか。獣化や発狂は「コップ半分の水をどう捉えるか」という問いのような、個人レベルの世界観に近い気がする。

 

 

個人的にBloodborne世界を捉えるときに思い出した曲を挙げておく。

 

ピノキオピー「たりないかぼちゃ」(2014)

啓蒙の低い/高いという感覚を説明するのに引用したいと思った曲。ハロウィンで世間が大騒ぎになるような当時を知っている人だったら、渋谷にヤーナムみを感じてもおかしくない…だろうか。

「たりないかぼちゃ」はハロウィンにはしゃぐかぼちゃたちを、一歩引いた目線で眺める曲だ。

歌詞についてBloodborne的に聴くときは、悩める子羊的な新人狩人の視点でどうぞ。

 

たりないかぼちゃは気づかない

目玉もついてないから わからない

啓蒙の低い民衆には隠された医療教会の思惑、上位者研究の学派など知らないまま「獣狩りの夜」を過ごしている。ハロウィンみたいに楽しくはないけれど。

 

一方、ある者は異邦より獣の病を調べるため、ある者は聖職者として民衆を導くため、ある者は医療の発展に尽くすため狩人になる。

新人狩人も、獣狩りを続けるうちに色んな人々に会い、神秘や「啓蒙」的事象に触れてゆく。

 

どうか あやつり糸はみつけないでね

いっそ 愉快な かぼちゃのままでいて

(中略)

どうか 利口すぎる悪魔に ならないでね

いっそ たりないかぼちゃのままでいて

啓蒙の高いことは必ずしも幸せであるとは限らない。知らない方がよかったこともたくさんある。

 

ぼくときみは違うだなんて

ちょっといじけてたけど

お城の上から眺めてみれば

同じ たりないかぼちゃだった

少しずつ啓蒙が高まり、絶望感が狩人を襲う。そんな一段高い視点から世間を眺めているつもりの狩人も、お城(上位者)から見ればまだまだ大したことはないのかもしれない。

 

足りているぶん 足りているぶん

そう 幸せすらも疑って

(中略)

見えちゃうぶん 見えちゃうぶん

また 悲劇ばかりこびりついて

頭が足りている、つまり啓蒙が高い分、この状況に絶望し発狂する確率も上がる。ヘンリックやアイリーンが獣になることなく狂化してしまうのは、既に知りすぎてしまった歴戦の狩人ならではの末路ともいえる。多分。

 

ずっと楽しすぎる夢から醒めないでね

いっそ 愉快なかぼちゃのままでいて

いっそ 幸せなかぼちゃのままでいて

Bloodborneの「夢」の概念とぶつかってしまって混乱するけど、要は知りすぎてはいけない、知ってしまえば絶望してしまうだろうから、というラスト。

それを知ってしまったが最後狂ってしまったり、狩人の悪夢でシモンが苦しんだような末路を辿ることになるから。

 

 

きくお「君が死んでも許してあげるよ」(2012)

これは啓蒙とは少しずれるけれど、上位者にみそめられた狩人の曲にぴったりだと思う。CDで聴いてはいたのですが2023年1月、MVがついて再度聴いたらハマってしまったという、個人的に曲への解像度も高くなった曲。

曲を聴くときは、ある素敵な狩人を見つけた上位者の気分になってください。

 

最終列車の屋根に

私の欠片を忘れてた

拾い上げて焼いて食べた君を

空から見てた

上位者に触れるきっかけって、偶発的なものが多いような気がする。宇宙から落ちてきた隕石等々。

「拾い上げて焼いて食べ」るところが、まだ啓蒙が低くてかわいらしい(?)。

 

終わらない悪夢を一緒に過ごしたいから

君を支える小さな希望の灯を消して

(中略)

終わらない悪夢を一緒に過ごしたいから

君を支える大きな絶望に火を灯して

君を支える希望と絶望とは「人(狩人)であること」にすがり続ける様子で、それを壊してしまって一緒にいようよ、と誘う上位者。

 

肯定肯定しよう 君の全てを

感情の谷から釣れだしてあげる

返して返して私の忘れ物

上位者は赤子を欲しがる。赤子とは人間でいう乳幼児である必要はないらしい(多分、幼年期の始まりエンドを見る限り)。

忘れ物(狩人に与えた神秘や啓蒙、へその緒)は上位者と狩人が邂逅するきっかけなのかもしれない。上位者版・シンデレラのガラスの靴。

 

余談ですが、決して「人間の赤子を産むことのできない」人形ちゃんが母のように「赤子を産むことのできない」上位者の幼体(狩人)を抱き上げるの、比喩的で素敵なラストだと思います。

 

おいで おいで 遠い星が君にも見えたなら

いいよ いいよ 囁いてあげるから

おいで おいで 君が死んでも許してあげるよ

いいよ いいよ それでいいんだよって

遠い星の見える君になら、人としての君の死を許してあげる、「上位者の赤子」として迎え入れてあげるよ、っていう曲に感じました(勝手に)。

 

 

啓蒙が低い方が、上位者的には育てがいがあるのかもね。「白痴のロマ」も啓蒙が低いという意味だったかもしれないし(適当)。

そう思うと啓蒙上げまくりの各学派の皆さんは不憫ですが……。

 

 

 

 

そんな感じです。