口は災いの元、を体現したような子どもだったし、今でもそういう人間である自覚がある。
黙っていれば嫌な顔されないし、人を傷つけないし、自分も後悔したり不利な状況に置かれることはない。
中学生くらいまでには、そういう方針が形成されていた。でも雑談や好きな物事についての話は楽しかった。
でもやはり、嫌な顔ではないけれど、奇妙なものを見るような困惑を相手から感じることは多々あった。変なことを言ってしまって困らせて、申し訳ないなと思った。恥ずかしいし、居心地の悪い罪悪感があった。
人の話の聞き手になる方が、お互いいい関係を保てる秘訣だった。本音なんて誰も聞きたくないだろうし、人同士の会話なんてただのコミュニケーションなんだから、会話らしく成立すればよい。
自分の薄暗いところや意地悪なところは仲良くするのには不都合な情報だし、そもそも自分の情報なんて相手には不要なものなのだ。
知りたければ質問するだろう。僕は質問されなかったから、答えなかった。
僕の本質は災いからできているのだから、人と接するときはそれなりの体裁を整えるべきなのだろう。
だけど語らなかった本音がそのまま消滅するのが虚しいから、こういう適当なところに落書きのように書き残してしまう。見苦しいことだけれど。
何十年もこうやって生きてきているから、痛みはないつもりだ。
子どもの頃から芝居がかっていて、役を演じているような何かを模倣するような行動が好きだったのも苦痛が少ない理由かもしれない。天の与えた痛み止めであり、感覚麻痺であり、お守りである。
また明日、まともな人間のふりをしなければ。
そう思いました。