壁打ち

感想、考察、日記、メモ等

2023051302(駅は憩いに向いていない)

駅は憩いに向いていない、と思う。僕の個人的な考え方だが。

 

駅は様々なタイプの人間が、時間と目的(移動先)を気にしながら絶えず流動している場所だ。

移動するということは目的があり、プラスの意識で動く人とマイナスの意識で動く人のコントラストがはっきり浮かび上がる。年齢もどこから来たのかもバラバラな人が一ヵ所に集まる。

 

ゆっくりとした動き。観光や旅行を楽しみ、現地の乗り物に乗る人。通院のため(タクシーや車が選択肢にない、あるいはできない)交通機関を利用する病人、高齢者。居場所もなく、外の天気から避難するためにとりあえず来ている人。

せわしない動き。時間と約束に追われる社会人。スケジュールを詰め込んだ充実した日々を送る人。ギリギリで予定に向かう人、遅刻した人。目的地に向かう途中迷ってしまい焦る人。子どもの手を引くお母さん。部活帰りの学生達。

 

 

対して憩いの場所とは、ただのベンチより一歩踏み込んだような場所、しかし店ほど「利用」を意識した場所ではなく、「それとなく」休憩がとれる場所を想定されていると思う。

無法地帯を防ぐルールを定めることはできるが、「様々な人を受け入れる」というそもそもの特性があり、その余裕が憩いである。

それゆえに隙があり、バランスを失えば治安は悪くなる。かといって統制を取ろうとすれば、堅苦しさや格式、金銭でハードルを上げた「囲い」になる。

曖昧な存在で、境界的。憩いの場所を設置すると、その場所は周りの空気感に染まる。

 

そういうバランスの難しい空間を、駅という様々な「余裕のない」人々(時間がない人、お金がない人、 気持ちがささくれている人、居場所のない人)が行き交う所に配置するのは、治安のいい国でなければ成立しない。

プラスの意識とマイナスの意識がぶつかり合って、個々人の事情が見えすぎる、あるいは見えなくなる。

 

ほんの少し前の日本の空気感なら、成立したかもしれない。

今は…