好みの作品だった。
アレクサンドラが「娘を安心させて」と言うシーンがある。(字幕の場合。音声英語にしてるので台詞聞き取る余裕なかったが、多分「daughter」?)
リアルに寄せるなら私「me」を安心させてだと思うが、これは娘を置いて死んでしまった(「私の馬」のために死んでしまった)パパと同じにならないで、という彼女の願いだと思う。
でもロイがパパに似てるとかイコールとかは思っていないと思う、ロイはロイとして大好き。
途中からアレクサンドラが乱入してくるのも、私がパパや好きな人たちを助けられたならという願いが、役として表れているのだと思った。
(役を演じる中で「こんな風に死ねれば…」というロイの願いと対比というか、「役の中なら理想になれる」という意味で相似的?だとも思う。)
人物をイメージをするとき、現実に会う人たちを当てはめる感じは共感した。
僕は昔、漫画やアニメのキャラ、オリジナルで創作したキャラを「配役」して小説を読んでいたから…あるあるなんだろうか。
レントゲン技師の兵士がかっこいい。映像美を押し出した紹介のされ方が多い?が、実際綺麗ではある。しかしそれ以上に舞台的な、多人数のダンスや構成、造形がすごいと思った。
女性の解像度が低いけど、この映画はロイとアレクサンドラに焦点を当ててるのでまあいいと思う。
ザ・セルの記憶が曖昧だけどターセム・シン監督特有なのか、女性の解像度が低くて「綺麗で、男は惑わされ、精神は決然としている」以上の描写がない感じが違和感あるといえばある、
(けど、北野映画とか松本大洋の初期作品とか庵野監督とか僕が好む作品はだいたい女性はそんな感じかもしれない。松本さんは何かのインタビューで女性を描くのが苦手(難しい?)と言っていた気がする。)
泣いたとこ
・ロイが死んだと勘違いしたとこ(おじいちゃんだった…)
・アレクサンドラが薬を取りに行って棚から落ち、目覚めたとき。状況を冷静に淡々と説明してくれる誠実なアレクサンドラと、安堵と自責で泣いているロイの場面。
・ダーウィンの相棒のウォレス(猿)が死んでしまうところ。ウォレスは最後まで研究者であったと認め、それに相乗りしてきたダーウィンが彼を真の研究者と認めるところ。自分が無価値であることを(いい意味で)受け入れたこと。
・霊者と奴隷が死んでしまうところ。鳥が飛ぶシーン、「いいのさ」と奴隷が微笑むところ。
・全般的に、アレクサンドラが叫ぶシーン、無双するシーン。
僕は基本的にあらゆることにおいて、キャラクターに自己投影できるかどうかを尺度にしているようだ。
だから、子ども(無垢な子、利口な子、男の子女の子、あらゆる「小さくて未熟だが一個人として尊重される人間」としての子)と不甲斐ない男の組み合わせが好きだ。
その二人が互いに、仮面をつけて心理的武装をして他者と対峙するような緊張感なく、素のままでやりとりするのがいい。互いに欠けた部分を補いあい、一人の答えはもう一人が持っている。互いに庇いあい、また弱い部分を庇ってあげる関係性。
そんな二人に対し自己投影することは、庇われる自分と庇う自分の両方が存在できるから安心できる。
そういうのが好きな方にはおすすめです。
そんな感じでした。