壁打ち

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20230927(ゲーム『Narita Boy』プレイ中感想、開発者の精神的側面とゲームに満ちる世界観)

ブラスフェマスをちょこちょこ触りつつ、新しい風を入れたくなったので『Narita Boy』をプレイしている。

 

タイトルや手に取りやすいちょうどいいポップなサイバー感からか、インディーゲームの中でも日本での知名度が高いように思う。

黛灰とかマシーナリーとも子とか(敬称略)、各所で有名な人達がプレイしてるし……

 

個人的な印象ではドットに常にモヤがかかってるような画面エフェクトがなんとなく馴染めなくて(ドットってアンチエイリアスみたいのがかかってないバリバリが良さなのでは?と思ってた)、

でもゲームとしてプレイしたらちゃんと面白いんだろうなというイメージだった。

 

 

世界観やポップな感じはそこまで惹かれなかったが、実際プレイしてみるとけっこう「陰と陽」の差がすごくて衝撃的だった。

「ゲーム開発者」「NaritaBoyというゲーム(ゲーム内のゲーム)」の陽気な部分は、スキル獲得エフェクトやハンドサイン(🤘)から確かに感じる。

 

けれどもそれ以上に、徐々に明かされる「開発者」の心情や荒廃した世界から、ハリボテでない真に迫った重さ、閉塞感を感じた。

その重苦しさはまるで初代ブラスフェマスを思い出すと感じるほどだった。

 

 

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ブラスフェマス2の感想はまた別でじっくりと書くと思うが、1作目の重苦しさは2ではほぼ無くなっている。

 

1では「生きることの全てが贖罪の重みで、我々はそれに従うことが信仰する者としての在り方なのだ」という世界。

2では「その奇蹟の重苦しさが、信仰が忘れ去られた」世界。奇蹟の所業については、ごく限られた人物しか知らない。

 

僕は個人のゲーム体験として「信仰や奇蹟のもたらす重々しい空気」を記憶していて、その場にいた悔悟者が2の信仰の薄い世界にいるのは、どこかよそ者のようで気が抜けてしまう感じがした。

自分と関わった人たちも彫像や伝説となり、過去の人物になってしまったと思うと、一人取り残されたような気持ちだった。

 

だからストーリーの構造上そうなるのは仕方ない。でも、あの重さは……と思ってしまう。(満足していない訳ではない。その辺りもまた今度)

 

 

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Narita Boyに話を戻すと、

 

実はこういう悲しい話があって……みたいな「(製作者が脚本を書いた)設定」は、ゲーム全体を通した「(プレイヤーが感じるメタ的な)世界観、雰囲気」と一致するとは限らない。暗い過去や背景があっても、陽気な世界観と共生することは可能である。

 

ゲーム世界と作者がピンチだから助けて!というあらすじからは、もっとコミカルなものを予想していた。

けれどもそうではなかった。

 

ゲーム内部ではゲームコードを守る一団と、その反対勢力が戦っている。

上記スクリーンショットは「兄弟を殺された兵士が、その死の瞬間を繰り返し眺め続けている」シーンだ。

他にも拷問にかけられる者、絶望を見ないよう敢えて視覚や聴覚データを遮断してしまう者等々……。

電脳世界の人々は皆ロボットのような容姿をしていながら、中身は生々しく人間のようであり、壊された世界には当然あるであろう悲劇(陽気なゲームでは描写されない、こまごまとした一場面)を各所に残している。

 

防衛戦をしながら皆、ヒーローの登場を待ち望んでいた。主人公はヒーローとして歓喜の中迎え入れられるが、そのギリギリの戦いの中で既に失われたものがあることを思い知らされていく感じがした。

 

 

それと、「開発者」のメモリー(=記憶)を取り戻していく行為。

それはそのまま彼自身の生い立ちを取り戻すことなのだが、その過去もまた温かさと同時に悲しさを共有することでもある。

おっさんそのまんまのふざけたようなトーテムに入ると、その中は厳粛な記憶の扉が立ち並び、赤子の姿が遠くに見える。

扉に入ると彼の思い出の中を見てまわるのだが、それが本当に「思い出」そのもののような、現実にモヤがかかっておぼろげになった感傷的なシーンなのだ。

 

楽しいゲームをつくる人間はこの世を楽しく過ごしているか?というのは、プレイヤーは想像できない。想像しなかったり、コアなファンなら作者の人柄を推測したりはするだろうけれど。

ゲーム内に出てくるように、バーで酒に浸っている時だってあるのだ。

 

(別に「ゲーム制作者の苦労を知れ!」という話ではない。)

 

 

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なぜブラスフェマスについて前述したかというと、

制作陣の心理的余裕や心強さのようなものがだいぶ変わったのではないか、それも1と2の空気の違いを無意識に際立たせているのではないかと(下世話だけれども)思ったからだ。

 

The Game Kitchenは少人数でゲーム制作をしているチームで、ブラスフェマスはクラファン(Kickstarter)で資金を募って実現した。

(この辺りはThe Game Kitchenの公式youtubeチャンネルでも見られる。最近だと1の開発時のドキュメンタリーが投稿されていた。)

自分たちの作るゲームに多くの期待が寄せられるというのは、ゲームを実現できる感動と反響に対する喜びの反面、リリースまでの緊張感も強かっただろう。

 

その張り詰めた感じが、Narita Boyの描く世界の荒廃感と近いような気がしてならなかった、個人的に。

 

 

ゲーム開発者の苦悩といえば、『Neverending Nightmares』もそうだ。

これもクラファン(Kickstarter)で資金を募って無事リリースされたホラーゲームだが、制作者はそれ以前のゲーム制作で一度挫折というか、苦い体験をしている。

(評判はよかったが、開発費用に対する売上が芳しくなかったそうだ。)

 

このホラーゲーム自体が、ゲーム開発を含めた作者自身の人生における苦悩を体現しているような面もある。

 

(ブラスフェマスについては僕の憶測だが、Neverending Nightmaresについては実際に個人体験がベースになっているとインタビューで語られている。)

 

 

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Narita Boyの開発陣は2016年に活動をはじめたとある。

Narita Boy以外に複数のタイトルを発表している訳ではないようなので、Eduardo Fornieles氏が構想したゲームを実現するための「Narita Boy専用チーム」なのかもしれない。

2021年にリリースされているので、コロナ禍を挟んで5年はかかっているということだ。その間のゲーム開発やそれ以外の部分での紆余曲折が、おのずと作品に流れる世界観に反映されてゆく、反映されずにはいられないのではないか。

 

studiokoba.com

開発陣のHP(たぶん公式)。

 

 

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まだプレイ中なので、「開発者」の彼と主人公がどういう結末を辿るのかは知らない。

今は、レトロフューチャーなエモい世界観を創らんとする「決意」と、常に足下に「何処へとも逃れられぬ悲哀」が流れているような雰囲気が、とても好きだと感じながらプレイしている。

 

 

 

 

そんな感じです。

 

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