壁打ち

感想、考察、日記、メモ等

20240318

2週間ほど空いてしまった。

特に書くようなことをしていなかったのもあるが、ガンダムの感想とか色々書き残しておきたいものはある。

ただ体が動かない、眠い、精神的余裕がない等々で空白期間があいた感じだ。

 

仕事して食って寝てゲームやガンダム視聴で終わる一日。

僕の人生の中では比較的安定して趣味もやっている「理想」の形に近い。

 

欠けているのは、その生活に充足感やワクワク感みたいなものが無いことだ。これは多分脳の機能とか精神的な部分なので仕方ないようにも思う。

 

職場でも人間関係でも長く在籍していると、

失敗してはいけないというか、失敗が伸びしろにならない=失敗したら幻滅されるばかりでよい所は無いと思い込んでしまう癖がある。

 

だから信頼が地の底に落ちる前に、その関係性を断ち切ったりしてしまう。

今の職場もそろそろ潮時かなとか一時期は考えていたが、今現在改めて考えると性急にも感じる。

その信頼度というのも、僕が勝手に妄想しているだけなんですが。

 

 

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ガンダムは改めて感想を書こうと思うが、総括すると

思ったよりも戦記・戦史的な部分が強く、民間人が巻き込まれるところがどうしても太平洋戦争のイメージが強く残っているように感じた。

もちろんこれはフィクションでやっている、という前提に立ってはいるけれども。

 

戦争は良くないの一点張りで終わらせず、

人同士が戦い合うとどういうことが起こるのかという過程、軍人と民間人の考え方の違い、権力争いや資源の奪い合い等内部の事情、諸々が絡み合っているものだという描写が歴史をなぞっているようで、土台のしっかりしたアニメだという印象。

キラキラしたSFでないところが面白かった。

今はZガンダムを観ている。初代の劇場版も見る予定。

 

(感想をうまくまとめなくては、という強迫観念があるからこの2週間、ブログに触れなかったというのもある。でも下地になるメモは書けるので、綺麗に整ったものを出さなければという恐怖感だけなのだと思う。

読みづらくても許してほしい、というかまず自分がその文章を書くことを自分に許さなければならない。最終的には目に見えるものしか死後は残らないから。)

 

 

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離人症というほどではないと思うが、

コンテンツを形式的?に「楽しんで」生活をしている自分と、

実際の感情が生じる場所(楽しいとか期待感とかプラスな感情のほとんどと、悲しいというマイナスな感情の一部)が切り離されてしまっている気がする。

疲労感や社会への怒りは感じる。これは悪いインターネットにさらされた人によくあるやつだと思う。

 

いつか感情が帰ってきてほしいが、そういう時はだいたいその前後の自分の一貫性(自己連続性?)は喪われてしまう。今までの自分の過去も分断されている。

 

また切り離されるのか。と思いながら暮らしている。

 

 

 

以上です。

20240303(日記、失敗が累積すると逃げる、「隣人を汝自身の如く愛せよ」と「自分に厳しく他人に優しく」etc.)

映画『ボーはおそれている』面白そうだ。ミッドサマーもよかったし、何より”自分の思想に近い”何かを感じるから。

 

blue-442385.hateblo.jp

 

上のが過去記事です。

 

聞く限りだとかなり強迫性障害(の一種)に近い気がする。

僕はそういう自分と似たタイプ、あるいは症状は違っても近い気質を持った人たちの症例だったり、経過を見るのが好きだ。

ある意味でそれは癒しになっている。(相手はそう思わないだろうが)仲間を探しているんだと思う。

 

ただ、とにかく人が多い。ミッドサマーをはじめ最近は本当に、

所謂ミニシアター的な映画が大きく取り上げられることも多くなった。

その分いろんな人間が見に来る。

 

SNSでバズりたい人、ネタとして消費する人。

もちろん映画を観る目的は高尚なものでなくていい。ただ僕が単にそういう人間と席を並べたくないだけで。

 

ハッピーセットカービィのぬいぐるみも、なんだか色々複雑な所もあったけど諦めることにした。(元々は買うつもりでいたが、大喜利が始まったので。)

 

日本という巨大な村の中で噂話しているようなものだと思う、twitterは。

政治や真面目なテーマもしょうもないスキャンダルも誰かの日常も等しく流され続ける。本当に人間と同じ空間にいたくないので、最近は買い出しか直帰しかしてない。

そもそも、無駄遣いする所もないし。

 

SNSが心底人間を憎む原因なら、SNSをやめた方がいいのだけれど。

 

 

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人間関係リセット癖がある。

 

最近よく考えるのは、今の職場をこのまま続けるのか。

(状況的には、今の条件のまま雇用されるならまだいいが何か追加で面倒なものを背負わされそうなら辞めようと思っている。)

 

ただそれとはまったく別の観点、リセット癖によるものだが「もうそろそろ潮時かもしれない」という感覚が浮かんでくるようになった。

前の職場でも「いつか辞めよう」が時限式で発動した結果、辞めることにした。

 

 

人間関係リセット癖のパターンは色々あるので気になる人は検索してください。

僕の場合は大別的には「失敗を恐れて。一度失敗したら信頼が失われて終わりだから」ということになるのだと思う。

でも別に社会人になって数年でそういう「失敗を恐れる」みたいなのは少なくなった気がするから、どこか当てはまらない感じがあった。

 

 

完璧主義で自分が許せないというのはまあ、だいたい合っている。

けれどそれ以上に、年々そこに所属して信頼を得たとして、周りに「以前は指摘されていたが、今は指摘されない」ミスが出てくる。

僕はその、自分が罰せられるべきなのに罰せられないという感覚が苛立たしいのだと思う。お互いなあなあになって許されている甘えなのではないかと。

自分は過去の自分と同じミスをしている、しかもn回目ということは失敗から学ばないという点で、初回の自分以下である。

 

 

そしてこれは最近気づいた思考だが、

「失敗は次に生かさなければならない」という強迫観念のようなルールが自分の中にあり、しかもそれを曲解しているようだ。

 

失敗を次に生かす。初心者のうちは失敗1つで3つ学ぶことがあるとする。

そうすると、熟達するたびに経験値は増えていき、初めての失敗は一通り経験済みになる。そうなると相対的に失敗から得られる学びは2つ、1つとなっていく。

 

得られる信頼はだんだん厚くなるが、失敗した時は「なぜ?」と問われるような気分になる。それは錯覚で、自分自身がなぜと自責している場合が大半だと思うけど。

 

能力の伸びしろが無くなる。

 

 

そうやって経験値が一定量に達する=伸びしろが無くなると、失敗は単なる学びのない不注意になる。

 

きっとこれからは(自分は十分に熟達したとみなされているのだから)失敗したら信頼は崩壊するだろう。と思ってしまう、感覚的に。

能力の伸びしろが無くなると、それ以降は信頼をいかにすり減らさずやっていくというか。

 

 

ごく一般的な社会人のまともな対応としては、誤りがあれば誠実に謝罪し対応することが最善なのだとされている。

僕もそうだと思うし、周りに同じミスを繰り返している人がいてもあまり気にはならない。(そもそもここまで自意識過剰になっていると、他者のミスでは全然傷つかない。他者が見えないから。)

 

「社会人の対応」は大人になって学んだ知識だ。

でももっと生得的な部分で、「もう信頼は取り戻せない、絶対に消えない傷跡(瑕疵)が積み重なっていくんだ」というイメージが常にある。

 

 

最終的に、皆が自分にうんざりするであろう地点に辿り着く前にそこから逃げ出す。

逃げ出した時にやっと、心の底から安心できる。

もう失敗しても大丈夫だから。

 

 

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こういう思考でいると、他者評価もそうではないか(自分にも他人にも厳しいのでは)と思われることもある。

自分に適用するルールを他人にも適用させようとする人ではないか?と。

 

決してそうではない。僕は上記に述べた「失敗してはいけない」思考を他者に押し付けることはないし、もし無意識にそれを求めてしまっていたら謝罪して二度とそうしないようにする。

 

 

小学生くらいの頃、よく図書館の本を「自分が触っても汚れないかどうか確認する」ことがあった。

しかし母は怒った、「あなたは他の人が触った本は汚いと言いたいの?」

 

僕は当時は訳が分からなかった。だって僕と他者は別物だから。

僕は僕という肉の機体を操縦しているのであって、他の機体を操縦する人とは全く別物だ。肉の機体も他者の機体とは別だ。

 

でもおそらく、そういう意味ではなかったのだろう。「僕は汚れているが、他者は汚れていない」という前提に僕はいる(あるいは「僕だけが汚れているのではないか?」という懸念)。それは普通ではないらしい。

多分「自己を愛するように他者を愛しなさい」という言葉が自己愛を前提としているように、そちらの方が多数派の考え方なんだと思う。

 

 

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「自分に厳しく他人に優しく」あるのが目指すべき目標なのだと思ったし、大人は自分がそうなるように教育をしているのだと思っていた。

教育上のおはなしでよくある

「他者には協力し手を差し伸べなさい。優しい人間でありなさい」と

「自分の目標に向かって他人に甘えずに自分に厳しく進みなさい」、

この二つを盲信したまま成長した。

 

しかしこれは上記の「自己を愛するように他者を愛しなさい」ということとは大きく食い違う。

二律背反的というか、これを両方保持するのは困難だと思う。でもそうしなさいということになっている。

 

 

解決法は「グレーであれ」ということなんだと今は思っている。

人間には建前があるし、教育では本当でないこともまことしやかに教えなければ社会が崩壊するからそう教えているだけなのだと。

 

それに自然に気づけている子どもならば……

 

「手抜きや失敗や怠惰は良くないこととされているが、時には必要である」ということなども生きる上では理解できなければならない。

それを理解できない人を「頭が固い、融通が利かない」と表現するが、

この表現は上記のグレーな部分、曖昧な正しさや倫理やケースバイケースという部分を理解できない、というニュアンスを内包している。

 

僕は例によって色々な人から「融通が利かない」と言われてきた。

良くないことなんだと思いつつ、かつて教わったルールには従わないといけない。

そういう葛藤の中で、表向きと裏向きの顔を使い分けたりして社会生活を送った。

 

30代のいい大人になった僕は今、自分がバラバラに自己乖離していってしまって、

それらを同時進行で保ち続けるのが難しい。

 

 

難しく考えすぎるなと、皆は言った。

僕は難しく考えるところまで考えつくさないと、一歩も身動きが取れなかった。

 

全ては仕方のないことだったと思う。

 

 

 

 

以上です。

20240302(ガンダムを観はじめた)

サブスクが激苦手な僕ですが、周囲にSEEDの映画きっかけでガンダム関連の話題が多くなってきて、思い立ってついにガンダムを観ることにした。

といっても別に映画を観るためにではなく、元々特に気になっていた「カミーユ・ビダン」について知るために…。

 

 

10年近く前からガンダムシリーズは観ておくべきか、自分にロボット戦闘モノは楽しめるのか…という疑念があり、また(各シリーズを総合すると)大長編なのもあって尻込みしていた。

ただ何かのきっかけでカミーユについて知って(ネタバレも普通に全部文章で見てる)、多分自分の好みの人物であろう……と。

でもやっぱり映像で通して見ないと実態はわからないし、というモヤモヤの中を何年も漂っていた。

 

 

しかし考察なんて色んな人がしてるだろうし、

今更僕が何かを語ることも無いだろうと思うと、いっそのこと自分の気になるところだけでいいか…とも思いはじめた。

カミーユが出てくるのは2作目(Zガンダム)以降だが、カミーユ役の飛田さん(僕の好きな声優の一人)が初代のファンであり、なぜ続編なんか作るんですかとまで言った(らしい)エピソードを知って、

とりあえず初代とZは観ることに決めた。

できれば一か月以内で。(本当に、サブスクが苦手です。)

 

 

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そういえば水星の魔女の展開(ラスト)が話題になった時も少し気になったのだけど、毎週何かを視聴する行為がめちゃくちゃ苦手なので見送っていた。

今まめに追えているのは忍者と極道くらいだと思う。

 

初代の数話観た辺りで水星の該当シーンについて色々調べた(多分通しで観るのが最善だろうけど、設定的(※)にもとても完走できる自信がないので……)。

※MSで地元の星を守ってたスレッタが地球に転校してきて…みたいな感じと聞いて、どうしてもいじめ…手の平を返す集団…複雑な親子関係…みたいなドロドロドロな関係をイメージせずにいられなかった

 

ガンダムオタクもガンダム初見勢もそれぞれ思う所あっただろうなと思う。また今度書きます。

 

 

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僕はエヴァが大好き、というか心理学的なテーマや個々の人物の内向的な側面を観られる作品が好きなのですが、

やっぱりガンダムはそういうのよりもっと客観的というか特撮や戦記ものに近い。

戦闘機の操縦シーン、各々の策略、目論見……等々にフォーカスされていて、僕にとってあまり触れたことの多いジャンルではない。

 

けれど面白い。

面白いというか、感覚的には世界史を勉強していた時や、

事故・事件について思い出して調べたり、たまたま目に入ったゆっくり解説動画で過去にこんな出来事があって…という事例を見ている時に近い気分になる。

 

(最近だと「人体の不思議展」の裏側というか変遷の話だったり、八甲田山は実際どんな出来事だったかとか調べてみたり。子どもの時ニュースで見た事故は結局どうなったとか、事件はどういう形で収束したのかとか。

検索上位をさらってみてるようなものなので、真偽は微妙ですが)

 

 

実はここで引き返していなければ……とか、ここで集団が二手に分かれて一方の安否は……とかはよく聞く話。

専門用語とかはわからないんで飛ばしてますが……

 

 

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あと正直観る前は、監督が怖いというイメージが先行していたのもある。

でも登場人物の心理的な動きとかは割と「わかる、理解できる」方だと思った。

(本当に価値観の合わない監督作品は、本当に合わないな~~~と終始思いながら見ることになるので。それはそれでいいのだけど。)

 

 

 

 

 

感想はまたいつかまとめて書きます。

そんな感じです。

アルセウス図鑑研究ポイント:カンストした(99999pt)

20240226(ばるばん『人生のなつやすみ』歌詞考察的感想)

twitterで見かけた曲。

 

www.nicovideo.jp

 

 

ボカコレ……存在までは知っていたけれども、全体を通して聴いてみるとかしたことはなく。

現行開催中のイベント?なんですね。

 

 

なんとなく好きそうだな、という感じで聴いてみて、

でもただ好みのタイプの「よくある曲」だけで終わらずにいくつか引っかかるフレーズがあったので書いてみます。

 

※あくまでも個人の解釈です。もし勘違いだったらすみません

 

 

 

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やったー やったー

辞めてやった

 

サビのフレーズ。

「何を」辞めたのかは書かれていなくて、

学校や仕事、終盤にかけては人生そのものなんだろうなと思います。その辺りは聴き手側の境遇にもよる

 

 

サビでは歩いてる心臓くん(仮称)がいます。

最初は曲に合わせて一拍一拍ゆっくり歩いているのが、終盤はひび割れて早足になっている。(細かく取り上げると、カフェイン系の薬物は心拍数が早くなる。ストレス性の高血圧や頻脈とか。そういう感じかもしれません)

 

心臓が一生に打つ拍数は決まっている、とか俗説(多分)もありますね。破滅に足早に向かっている感じ。

心音っぽい音は前奏ではっきり、曲中にも所々使われてます。

言い換えると「使われてない所」もあります。

 

 

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三年前に買ってた新作のゲーム (中略) やってみたら三時間で飽きた

 

主人公は過去に(社会的立場によって)犠牲にしてきた趣味とかを取り戻そうとするんだけど、体だけでなく頭の回転や集中力がついていかない。

鬱病の症状あるあるですが

 

なので「勉強や仕事をした後の趣味こそが楽しい(=辞めた後の趣味は楽しくない)のだ」とかではない(と思います)。

 

(感覚的にこの思考が「分からない、理解できない」人たちもたくさんいるし、できれば知らない方がいい世界だと思います。

僕含め知ってしまった皆さんは誤魔化しながらやっている感じだと思いますが)

 

 

「話題になってた漫画」や「かわいいあの子が泣いてる理由」も、自分の好きなことは全て後回しにしてきたので昔のコンテンツが積みあがってて。

推しがいたとしても追いきれなくて状況がわからなくて、コメ欄も蚊帳の外で。

 

「分かんないから分かんない」は不思議な文章に見えますが

「(最新の背景情報が入ってきてないから)分かんないから(あの子が泣いてる理由が)分かんない」かなとも思うし、

他者の感情が理解できなくなってる、とも解釈できるかもしれない。

 

ココロやカラダだけでなく

コンテンツそのものを追う行為自体、という意味でも手遅れなんですよね。

 

 

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間奏のセーブ中は「心身の回復期間」だったかもしれないけど、

そのままスリープモードに移行している(現状の放置)のはセルフネグレクト的にも見えます。

 

「なにしてねむろうかな」(不眠)になるのも、社会で生きる苦痛から解放されたことよる安息より、

段々と平坦に日々が過ぎる疎外感、閉塞感が勝ってしまうことによる不眠かもしれない。

 

スリープモードって、眠っているようでいつでも起動できるようにバッググラウンドで処理が待機してることなので

もし人間に当てはめるなら休まらないだろう……というジレンマがあります。

 

 

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枕の裏がわ裏返したら
カビ生えた 黒カビだった

 

細かいようですが、一番が黒カビで二番が白カビになる。

主人公も黒カビの時点では引いてるけど白カビの時にはもう何も感じない、という風に変化してます。

 

白→黒の方が視覚的にはエグさがグレードアップしているような、死=黒という方向性に病み歌詞のパターン的には持っていきがちだと感じるんですけど、

黒(腐敗)→白(白骨化)

ひいては中途半端な「終わってる」状態から完全な「終わり」に向かっている感が出てる気がする。

死の純度が高まるというか……

 

 

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窓の外に見えている

あの子は大きくなってしまったね

 

一番の「どうにもならない」の所の映像では窓に自分の姿が映っていて、現実の自分をチラ見しています。かわいい

二番では窓を閉めてしまうので見えません。

 

初見のうちは近所の子(健全な社会)を眺めているイメージでしたが、聴いているうちにそうかな?と思いはじめて

「あの子」は社会的な視点、客観視できる視点を持った内省的な自分の一部なのではとも思いました。自信ないですが

 

 

辞めた上でさてどうしようというか「自分はこれから具体的にどうするつもりなのか?何か追い詰められて動きだしたりするだろうか」

と俯瞰的に、他人事のように観察している自分がいる。

 

それは焦燥感とかになって、社会復帰のエネルギーに繋がればそれはそれでいいんですけど

日数が過ぎていくにつれ社会性(あの子)というのがどんどんハードルの高いものに感じてきて、

ただゴミ捨てに外に出るとかもできないようになったりする。こんな姿じゃ外の世界に出られないという思考に陥ってしまうというか

 

二番のように、そのうち現状に慣れてしまうとそういう客観視(あの子)は消えてしまうと個人的には思います。

 

 

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ぼさぼさ髪の毛抜け落ちちゃったら

どうにもならない どーしよ

 

髪の毛って人体としては生え続けるものだし、生活が崩壊していく過程では整えられた髪がぐしゃぐしゃに伸びるみたいな描写も多い。

ストレスで髪が抜けるというのもあるので一概には言えないけど。

 

髪の毛が抜け落ちた→どうにもならない(もう生えない)というのは

既に肉体が代謝しない状態になっている=死んでいる、ということなのかも…しれない。

 

 

聴きながら感じていた引っかかり、違和感というのがこのあたりで

この曲は「辞めた」直後から死までを辿った曲なんだろうか?という点です。

 

つまり本当は一番の冒頭の時点で、実は既に死んでしまっていて、

本人がそれに気づいていないという気もします。

ラストカットの主人公(ドット絵じゃない姿)が現実で、ドット絵の部分は夢か幻覚をみているような感じで。

 

そう考えてみると冒頭からいきなり「辞めてやった」のも、生を辞めてやったという意味にもとれるし

(でもそうなると己の死を自覚していることになるので……??)

 

 

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この曲自体が観察日記のような、

九相図(人の死直後~白骨化して灰になるまでを描いた仏教画)にも似ている感じがします。辞める理由は人それぞれあれど、諸行無常

 

タイトル『人生のなつやすみ』は休職する時とかによく出てくる(一般化してる?)フレーズですが、

そういう儚いひと夏の生き物の記録という感じがして好きです。

 

 

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サビのバックコーラスで歌詞っぽいのが聴こえるのですが聞き取れませんでした……今はまだ新曲なので、そのうち歌詞一括で公開されるでしょうか。

 

(ボカコレの作法を知らないのですが……

さすがに歌詞まるまる掲載するのはダメでしょうということで載せてません。適切な程度を心掛けましたが、作曲者じゃないのに引用とか説明多すぎであればすみません)

 

この曲、なんか聴いてしまうなって人がきっといると思うのでそういう人が巡り合えたらいいなと勝手ながら思います。

意味の押し付けになってたらすみません。

 

 

 

好きです。

そんな感じです。

20240221(最近の生活のメモ)

最近暗いことばかり書いているな……と思いつつ、書きたいこと書けることがこれしかない。

同じようなことばかりだ…と思いながらも「この期間は本当に同じことしかやってなかったんだな」と後から確認できるから、いいか。

 

 

~日々のルーティン~

 

・仕事。特に問題なし。

 

・寝る。朝眠く、昼寝して、夜は目が冴えるわけじゃないけど体が動かなくて布団に入れない。

(布団に入れないというのは歯磨き、明日の準備等の寝る前の諸々の行動に取りかかれないことと、それらをせずに寝てしまうという判断もできないという膠着状態)

 

・ゲームはアルセウスのタスク埋め、色違い探し(狙ってはいない)、音ゲー(MuseDash)。この2つはぼんやりできる、新規ゲー開拓する気力は無し。

 

このブログのアクセス的にはゲーム攻略が一番読まれているから、目新しい情報が久しく無いことに焦りというか自責感を感じる。けどしょうがないか。

(ゲームタイトルの攻略で来てるなら、ブログを横断することもないだろうし……もしいたらすみません、ありがとう。)

 

・食事。自炊というか鍋で煮るだけの行為が、ここ数日で急にできなくなった気がする。諦めて惣菜を買ったりレトルト食品と野菜ジュース、キャベツを丸かじり等で過ごす。

キャベツ、楽だしバリバリしてて好きだけどおならがシンプルに臭くなる。トレードオフな代償として諦めている。

お菓子系は(比較的)安くてたくさん入ってるからしこたま買ってきてしまう。購買欲と甘味欲と作業欲?(嚙み砕きたいという欲)がバックについているので抗えない。

 

自炊自体が仕事と100%両立するのが難しいのかもしれない、自分に限って言えば。

前職(フルタイム正社員一部残あり)は毎日昼おにぎりだったし。

惣菜を買うにしても、仕事帰りに店に寄って人のそこそこいる店内から欲しいのを選ぶ、値段も考慮して相対的に得だとか嬉しいだとかで選ぶけど

選べないくらい疲れてる時は直帰。

 

皆、こういう疲れの無限ループから抜けられない時どうやって睡眠家事食事をしのいでいるのか。

疲れて思考停止してる(その上で長考してる)っていうのも疲労を重ねる行為だ、とわかっていても考えてしまう。こだわりが強いというか……

物忘れも多くなってきた気がする。さすがに主治医に相談してみるべきなのか。

 

 

~放置中~

・家事の3割くらい(必要最低限の7割で人らしい形を保っている)

・掃除、書類整理(今年は確定申告や医療費控除の手続きが無いのでなおさら放置)

・音楽とか動画編集、年末までやってた創作系のもの。

スマホとPCのバックアップと整理

 

このあたりのもの、できなくはないな~と思いながら手をつけずにいる。

普段は1週間に1回くらいは謎のやる気が出るけど、年末年始以降ここが化石になっている。

 

本当に満足いくくらい片づけたければ3か月くらい無職状態(休職状態?)になって、最初の1か月寝て食ってやることが無くなればさすがに手を付けるか……という感じ。

思い返せば無職の時は手続きの書類を書くとか、家計簿のベースをexcelで作るとか、

仕事みたいなことに割と乗り気でできていた。他にやることが無くて虚無だから。

 

 

世に言うストレス耐性的なものを随時現行の自分に合わせていると、だんだん総合的な体力が減っていくような気がする。自壊しないギリギリの負荷がかかってる状態なら、衰えず維持できるんだろうか。

できることは増えてもそれらに割くリソースが年々減ってるから、後悔しない取捨選択をしないと……という焦りがある。

 

 

 

そんな感じです。

アルセウス図鑑研究ポイント:99310pt

20240123(首を落とすということ)

※20240123に書いたもののお蔵出しです。

 

 

Bloodborneの夢エンドをまた見返してた(あのシーンが好きすぎて、自分のプレイ録画がある)。

 

首を落とすとは魂と肉体が離れる瞬間という感じで、人間がこの世のものでなくなるという描写だと潔さを感じるから

ただ、ゲールマンくらいの手練れでないと一発できれいにとはいかないだろうが。。。

 

 

映画『首』でも様々な人物の生首と首のない体を見ることになるが、

やはり魂は首に、肉体は体にと直感的に捉えるのかもと思った。

だからさらし首(大衆の見せしめになる、辱めを受ける)とかに意味がある

※歴史的な考証ではないですから、違う意味もあるかも

 

 

魂が肉体から開放されるというのに美しさを感じるというか、安堵感があるのは僕が間違っているんだろうか。

 

 

 

 

 

以上です。

アルセウス図鑑研究ポイント(20240218時点):98660pt

20240215(罪を憎んで人を憎まずとは/罪人であるところの自分)

 

 

罪を憎んで人を憎まず、という言葉の意味が昔は分からなかった。

最近は「罪(悪しき行為)」は非難されて然るべきであるが、

それはその行為を犯した「人(その人そのもの)」自体を非難することはできない、という意味だと捉えている。

 

では、罪と人はどこまで分けて考えられるものなのか、

あるいは癒合してしまっているのか。

 

 

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・ある配信者と視聴者

 

サロメ嬢の切り抜き。

これこそまさに「罪を憎んで人を憎まず」ということだと思った。

 

そして正直僕は苦しかった、こういう思考は「罪」なのか「人」なのかわからなかったから。

 

この文章の人は僕ではない。あくまでも僕が勝手に自己投影している、という狂気を前提として読んでください。

この文章の人は違いますが、僕自身は狂人なので。

 

 

www.youtube.com

 

 

投稿された文章を要約すると、

・配信者(この場合はサロメ嬢)のトレパク注意喚起の対象が自分なのではと感じた。(自分はしていないつもりだが周りからそう見えるのかもという疑念)

・自分は金銭的貢献、物理的貢献ができない。

・上記の後ろめたさから、自分は彼女が好きだから推していたはずなのに、実はそうではなく自分の承認欲求や「推し活」という行動をするために彼女を推していたのではと思いはじめる。

という感じ。あくまでも切り抜き上で読み取れる部分や文章しか見てませんが。

 

 

それに対して、サロメ様は

・発信者の言葉は深読みせず言葉通り受け取るのがよいということ

・文章の投稿主を傷つけるつもりはないが、この思考回路を怖いと感じる(自分はともかく他配信者が見たら怖いと思う、場合によっては発言できなくなるであろう)こと

・「一週間に一回サロメ嬢を想う」だけで十分「推し」と言えるということ

 

「一週間に一回~」の部分は「他者と比較した時の金銭的多寡、物理的貢献等は考えないでほしい、自分が好きと思っている気持ちだけでもよい」ということを言いたいのだと思います、多分。

漫画やアニメ等のコンテンツでもよくある「全部視聴してないから」「お金を公式に落としてないから」好きという資格がないと感じる…というのに近い。そこまでしてなくてもいいよという……

 

※本編は現在非公開になっています。これについては「厄落とし回は配信後非公開にする」「切り抜きにしないでほしい」旨のお知らせが見当たらなかったこと、僕自身がリアタイした訳ではないことから非公開の理由はわかりません、もし取り上げてはいけない内容であればすみません。

 

 

サロメ嬢の言うことはもっともで、とても建設的で優しい。

 

そして彼女の言った「本人を傷つけるつもりはないことを念頭に置いて聞いてください」という言葉と、この文章を見て「怖い」と感じたという二つのこと。

 

この思考や文章は怖いし配信者を委縮させる(可能性のある)言葉だという「罪」はあれど、「本人」自体を排除したりそうあるべきでないと否定するつもりはない。

そういう二面性?が「罪を憎んで人を憎まず」のお手本のような感じだと思いました。

 

 

ーーーーーー

僕が苦しいと感じたのは。

病院を受診することで治るような、一時的な状態異常としてここでは語られること。

(実際にそういうパターンが多いとは思います。SNSは異常に他者が見えすぎるのでノイローゼになってしまうことが少なくない。この文章の方がこちらであることを願います…。)

もちろん、受診や治療を通して元の健全な思考に戻ることができます。

というか、ここでサロメ嬢が「そうじゃないよ!」と否定してくれただけで目が醒めるように正気に戻れる人もいると思います、たくさん。

おそらくそれが多数派です。

 

 

しかしごく一部ではあると思うけれど、

一般的に状態異常とされる「それ」が自分自身そのものだった、というパターンもあります。想像するのが難しいかもしれないけれども。

 

メンクリ、受診した人が自分以外にも周囲にたくさんいるのですが、僕より先に「卒業」あるいは「経過観察」になった人が多いです。

僕は(己の人生を顧みて)多分自分の根っこがこの病理に侵されて自分と不可分になっていて、永遠にこういう思考を抱えたまま生きていくんだと思います。

 

少なくとも僕は、そういう「他者を恐怖に陥れる化物」であるという自覚を三十年かけて思い知ってきました。

 

 

 

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~僕個人の話

 

僕個人の話。

思い返してみると、色々と子どもの頃から「ちょっと異様だけど想定の範囲内」の逸脱はあった。

成人してから、そういう精神的疾患を抱えている子かもと感じなかったか?と母親に聞いたら笑われた後「(多分僕がこういう問いかけをすることを鑑みて)育て方を間違えたかもね」と言っていた。

 

色々怒られたし叱られたり窘められたり、それが怖くて「いい子」になりたくて、自分の悪い(おかしい)部分を直して隠して。

言語的な注意だけでなく、「別に駄目じゃないけど…」と言いつつやんわり別の選択肢を選ぶよう誘導されたり、空気を読むよう無言の圧力があったり。

そうやって親や学校に社会性を「矯正」してもらったので、それなりに普通の「一般的」生徒になったと思う。

友達に嫌われる原因になった行動を反省し、封印するようにしたので友人もいた。

 

 

自己と癒着した「社会的に邪魔な部分」は犠牲を払って捨ててきた。

例えば一言多いおしゃべり癖を封印したので、会話だと人の眼を見て話せなかったりどもったりする。頭の中で相手の言葉とそれに対する適切な応答を考えるので、どうしても変な間があく。

今こうやって文字列で長々と文章を連ねているのは、その反動だろう。

 

心理学者か誰かの本で読んだことがある。自分の気質は変えられない、殺しても殺しても甦ってくるものだと。

その通りだと思うし、殺し切ったとしても上記のように別の部分で苦しむことになるんだと思う。仕方のないことだ。

 

 

自分は化物なんだと思い知らされる。

周囲を怖がらせる迷惑な存在なので、今は色々あって精神科でもらった薬でバランスを保っている。それで人間性や社会性を一生保ちながら生きていくんだと思う。

身体でも精神でも、生まれつき持っているものがあるよね。

自分の持ち物と社会とで折り合いをつけて生活しなければならない。

 

僕はそのために人格を分けたり作ったり、社会性を(それはあくまでも仮面の一部であり、自分のものとはできなかったけれど)獲得したりしてきた。

家族や教師や同級生との関わりを通して、宇宙人が形だけニンゲンを模したように「まともな人格」を作りあげた。

弊害として過去の幼少期、ありのままの自分の思い出は他人事のように感じるし、懐かしさというものを感じなくなった。過去の自分は既に死んだので。

自分の中でバラバラの考え方が対立するような自責感が毎日あるけれど、基本的には波風が立たない方を選ぶ。問題行動は抑えつけ、一人きりで誰も傷つける心配がない場所で発散する。

 

 

もしどこかで僕と同じような、ありのままの自分ではどうしても他者から嫌われてしまった、受け入れてもらえなかった人がいるならば、

そういう社会的な人格を作りあげて演じることができれば居場所も増えるかもしれない。

ただ自責感は一生残るし、ありのままの自分で生きた方がよい場面もきっとあると思う。

どう生き残っていくか、判断はあくまでも社会の秩序ではなく、本人が決めるものだと個人的には思っている。

 

 

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・どこまでが「治す」ものであるか

 

ここでまた「罪を憎んで人を憎まず」に戻ってみます。

結局精神科を受診するかしないかは、個人(あるいは家族や周囲の人々)の判断だということです。

ここで「受診しない」選択を取っても、(受診しなかった弊害があればその行為や判断を咎めることは可能でしょうが)個人そのものを悪人とすることはできないということです。

 

上記で取り上げられている思考(自分が注意されているのではないか、自分は資格がないのではないか等)そのものは良くないとされていますが、

その思考そのものが「その人」であるならば、他者がそれを強いて矯正するよう求めることはできないのです。

現代社会への適合手術」を強制しているようなものです。

(身体障害の例をとると「優生保護法」ひいては優生思想に近いものがあると思います。個人が個人の心身について決定権がなく、どのように扱うのかを他者に強いられるという意味で。)

 

 

しかし現状問題としては、殺人罪に対し精神鑑定の結果で情状酌量がつくような場面を見るとやるせないものもあります。

他者の危機が及ぶならば、疑わしきは皆「施設送り」になるべき世の中なのか。

 

そもそもどこまでが罪に問うべき行動で、どこまでが情状酌量となる個人の気質であるのかを区別するのは精神科医でも難しいし、

神様のような存在が心の裏側まで見通すようなことでもないと不可能とも思います。

鑑別対象になっている本人さえ自分の心理状態が分からないことだってあるので。そしてその「本人すら分からないレベルの心理状態」は果たして罪/人どちらに当たるのかについても分からないはずです。

 

(司法制度は人間社会の保持のため必要とされているので、完全性に欠けていても運用していかなければいけないのもまた実情ですが。)

 

 

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・自己責任論と「罪=人」の構造

 

「罪を憎んで人を憎まず」と対極にあると思われる、自己責任論。

 

上記の優性思想と、資本主義・個人主義化した現代で覇権ともいえる自己責任論はゆるやかに繋がっているとも思います。

そして自己責任論一辺倒になると、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉は無価値になります。

 

その人が「その人であること」自体に責任を持ち、何らかの他害があれば対応を迫られる。

「どうしてそう判断したのか、どうしてその行動に至ったのか、全てはその一個人から発生したものであるのだから、あなたが責任を取りなさい。」ということ。

 

問題となる心身、思想、行為がその個人存在と強く結びついていて、それを罪に問われるということは個人の存在意義の是非を問われることと同義になります。

自己責任論の支持者の一部にはこういった判断について、全く正しいと感じたり司法や社会制度はそうあるべきだと思うかもしれません。

 

自己責任論という名称を掲げなくとも、またここまで極端でなくとも「その人の行動の源流がその人個人から生じているんだから、それは本人が責任を取るべきだよね」という考え方はあると思います。

何より僕自身、少なからずそう感じているから上記の”精神鑑定による情状酌量”のケースについて素直に首肯できないのです。

 

 

法律や犯罪に関する分野については問題が大きすぎることと、既に「社会制度」として手続きが確立していることを踏まえると、個人の努力ではどうすることもできません。

 

ただ個人の考え方において、

「罪」と「人」は分離不可能なものなのか、あるいはそれらは分けて判断すべきなのかということを冷静に見定めることは忘れないようにしなければと思っています、少なくとも自分は。

 

 

 

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生存戦略

僕が自己責任論的な方向から一旦逸れて「罪を憎んで人を憎まず」の文意を一理あるものとして捉えるようになったきっかけの一つは、

個々人の生存戦略について考えた時のことです。

 

つまり環境要因的というか、その人はそうしないと生き残れない環境にあったのだ、という考え方です。

 

例えばいじめ加害者の家庭環境は良くない場合が多いことであったり、人から愛情をかけてもらえなかった結果、人格に悪影響が出たり。

そしてそれが他所で加害的行動に変わったり、その本人が親になった時の子どもへの虐待等、いわゆる「負の連鎖」が起こることも最近は多く認知されていると思います。

 

(ただ加害者を擁護する方向に派生しかねないからか、メディア等ではそういった

「(加害者本人の立場・視点からみて)やむを得ない生存戦略を選び取った結果、加害行為に発展する」という部分についてはあまり着目していないように感じます。)

 

 

もちろん「それが彼らの生存戦略だから」で罪が無くなる訳ではありません。

加害等行動の結果としての「罪」は裁かれる必要があります。

 

ただし一方で、彼らの「人」の部分を完全否定することはできない、と最近は思うようになりました。

そういう暴力的な行動で常に周囲を威嚇しなければ生き残れない、見捨てられる、殺される環境で生きるということ。

 

酷い親の下に生まれた子どもたちに「この場所に生まれたことそのものがお前の罪なのだ」とは、とても言えません。

少なくとも環境に殺されなかった僕が、

殺され死んでいった子どもたちやなんとか生き延びたけれども人格を滅茶苦茶にされてしまった子どもたちに向かって、そんな傲慢なことは言えません。

僕はたまたま、そこに生まれなかっただけだから。

 

何が何でも(加害側になっていたとしても)生き延びようとすること自体、「人」の部分そのものを否定することは、できないと思います。

生きのびようとすることは生物として当たり前で、誰も悪くない。命を得たものとして自然なことです。

 

再三申し上げますが、加害行為を肯定しているのではありません。

罪は罪。本人の生い立ちに責がなくとも、罪には責があります。

 

冒頭の文章を投稿した視聴者の方がどんな環境にいるか考えるのは邪推ですが、

こういう「これは自分のことを言われているのではないか」という思考が染みついている人の中には、

保護者や生育環境において「我々を大切に思うならば、言外の意図をくみ取れ」と強いられていた人も当てはまりやすいと思います、個人的には。

要は親の機嫌を取るため(=生き延びるため)には言葉にしない部分こそが大事で、

それを先回りして相手に満足感を与えなければならない、奉仕しなければならないという生存戦略を形成せざるを得なかった人々。

 

自他境界が曖昧で、だから自分のことを言われているのかどうか本人ですら判然としないのです。

(「トレパクしてないのは本人が一番分かっている」という意見は確かにそうですが、「自分の判断を信じるな、我々の言動や仕草から”正解”を探し当てろ」と教育されてきた人にとっては「他者の言葉>自分自身の判断」なので、

「自分はそうではないつもりだったが、好きな人がそう言うなら自分が間違っていたかもしれない」と思い込みます。

一般的に健全に生きてきた人々にはおかしな光景かもしれませんが。)

 

自他境界が曖昧な人は生存戦略に従って「それはきっと私のことだ/私のことではない」と判断します。自責感が強い人は自分のせいだと、他責感が強い人は他者もしくは他の要因のせいだと思い込みます。思考の流れは両者似ています。

 

 

生まれる場所は選べません、残念ながら。それは自身の親に殺された/子に殺された事件等々を見れば無論と思います。どんな対策もしようがありません。

 

 

周りに傷つけられている気がする、というのは他者から見れば自意識過剰、被害妄想と一蹴されるのですが、本人としては殺されないための思考パターンなのでどうしようもありません。社会的視線に対する侵襲反応とも言うべきでしょうか。

しかし一方で「それは被害妄想」とするのが社会の多数派で”健全”な思考なので、

親元や元いた場所(あるいは今現在いる場所)を離れてこの生存戦略を徐々に捨てる、軌道修正する必要があります。

社会に受け入れられたいと思うのならば。

 

ただその過程で、過去の生存戦略に縋っていた自分を否定はしないでほしい…というのを老婆心ながら思います。

だってそれはあなたが生き延びるために大切にしてきた鎧であって、生存したい殺されたくないとあなたが思ったことはごく自然なことだからです。

 

 

ついでにいうと、上記サロメ嬢の「怖い」という反応に少なからず傷ついたとして、

その傷ついたあなた自身(「人」の部分)は何も悪くない、

ただ与えられた環境や無意識下で育てた生存本能から出た言葉(「罪」の部分)が人を傷つける可能性があるというだけです。

だから「罪」の部分をその場に置いて、粛々と別の方法を模索するしかありません。それは過去の蓄積を切り捨てるようでとても苦しいけれど。

 

(良かれと思って「病院に行け」と言うとキレる人も、生存戦略の否定=個人存在の否定と捉えるからです。死ぬような思いをして生きてきたうえで「あなたの生き方は人として醜い、ありえない」と言われたように感じる、という思考パターンでしょう。僕も多少感覚的にそう感じます、今は理性でその感覚を否定しています。)

 

 

その社会的に誤りとされる生存戦略を「矯正」して社会に受け入れられるか、ありのままを生きて社会的な死を突きつけられる(≒誤った生存戦略により淘汰される)か。

どちらを選択するかはあくまでも、本人の意思の下にあると思います。

本人が意思表示できない場合はなんとも言えませんが、他者が彼らの存在価値を「社会的・客観的に定義」することは押し付けでしかありません。

 

(もちろん本人が意思表示できない場合の諸々の判断は、家族や後見人がしているでしょう。それらについては仕方のないことだと思います。その方法以外で本人を尊重する術が無いから。)

 

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~僕個人の話、終わりに

 

上記に色々書いたことを自らに素直に当てはめれば自己肯定感が高まるかもしれないが、敢えてそれはしない。

通院はしているし良くなったり悪くなったりだが3年目くらいだし限界も見えてきて、僕の生まれ持った本性には罪があるものだ、と抱えて暮らしていくのだと分かった。

 

僕は本当は社会向けの人格を被ったり薬を飲んだりしないと人間にはなれない化物で、でもそれを仕方ないと今は思う。

生まれてしまった以上、他者に危害を加えず家族や友人を不幸にしないようにしていきたいと考えている。

 

自分のような人にはそうありなさいと言うつもりは全くない。僕は人間が嫌いなのでこういう思考で孤独死しても問題ないが、

人と関わりたい、幸せになりたい、心穏やかに生きたいと考えている人に強いるには、酷な生き方だと思う。

 

 

ただ僕自身においては、本当は化物であることは永遠に変わらないです。

人間の形に矯正してくれた社会、周囲の人々には感謝しています。当たり障りのない仮面というものを知ることができたから。

化物に生まれてしまったことに罪はないと思いたいですが、どうでしょう。

せめて行動による「罪」を重ねないようにしていくつもりです。

 

 

 

以上です。

 

https://www.nicovideo.jp/watch/sm5209167