壁打ち

感想、考察、日記、メモ等

20240208(愚痴、自己責任、グレーは正しい、見えるものしか見えない)

愚痴です。

 

 

 

脚本家(及び脚本家団体)、テレビ局、出版社が民衆に誠実性を演じて同情を求めている。

おおむね、業者特有のマニュアル芝居とキャッチコピーのようなお気持ち文章。

 

それが本当の気持ちかどうなのか、もう見定める気力もないですよ、少なくとも僕という一般人にとっては。

 

これからのキャリアを考えて潰しの利かない状況を避けるための手段にしか見えないんですよね。それが本心であっても。

そういう疑心暗鬼に陥らずに受け止めるくらいの馬鹿だったらよかったけれど、この時代では妙に賢しくなってしまった。

 

結局この疑心暗鬼でまた死人が出たら、僕は罪悪感に駆られるだろうか。

もしくは「ほら!また犠牲者が……」と芝居をする業者や団体に呪詛を向けるだろうか。

 

 

だから、もう疲れました、という時は「全員切る」。

僕はもうテレビもドラマも見たくないし、いちいち作品の作家性やどれくらい”手が汚れていないか”チェックしてからさあ作品鑑賞、という気分にもなれない。

全てをシャットアウトする。

 

現代は娯楽が多いからこういうこともできるが、手が汚れてそうなものが次々に見つかっている今、いっそ何もしないで寝た方が誠実なのではと思えてきた。

 

 

よくある、この企業は○○国の粗悪な労働環境で生産されている商品を売ってるとか、戦争に参加している国を支持しているとか。

そういうのを消費者が一つ一つ個人で見定めなくてはならなくなった。

 

「知らなかった」というのも、まあ言い訳にはなる。知らねーよとも。

そしてそういう態度を断罪する人々、お前らも協力者なのか、非人道的だと糾弾する。

 

そうですね。ところであなたたちは普段どんな生活をしているんでしょうか。

生産者が選べるほど金銭的、心理的な余裕があるんでしょうね。もしくは自分が生活困難になっても廃人になっても、この世界の平和を願っているんですね。

僕もそうなるべきだった、いやこうやって無駄にあらゆる資源を消費している僕自身が社会的に存在してはいけない廃品なんだ。今すぐ死ぬべきだ。

 

 

そんなこといちいち考えて生活してたら頭おかしくなる、正直。誠実に生きたかったから以前はいろんな話を聞いて僕も考えた、僕なりの答えを出して決めていた。

結果的に、上に書いたように僕という存在自身が一番要らないと気づいたから、最近は投げやりだけれども。

(僕は家族のために生きている。家族の人生に汚点を残すわけにはいかないからまだ自殺していない。)

 

 

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でもさ、もう金もないし頭は狂ってるし、実際あと何年生きられるか分からないって毎日思ってるんだよ。

どうやったら死んだ時に家族に負担なくできるか、法的な部分はどうか、何か残すべきものはあるか、どのタイミングが最適か。そういうのを日々頭の片隅で考えながら過ごしている。

 

親はボケて自分のことを忘れるか、ヘルパーの一人だと勘違いするようになるのかな。あるいは「私はあなたたちの子どもではないですよ」と暗示をかけるしかないのか。

兄弟は結婚すれば僕がいなくなっても心の支えになってくれる人ができるかな。

そんな不謹慎で不孝なことばかり考えている。

 

 

そう考えながら自分の生活をやっていく。

本当は苺食いたいな、でも高いしけれど農家の方々は光熱費やコストや手間込み込みでこの値段にせざるを得ないんだ。

小売も色んなスーパー見てるけどだいたいこれが相場ということは、変にぼってる訳でもないんだろうな、知らんけど。

 

そもそも菓子パンやお菓子が~200円くらいなのになんで生鮮はこんなにg単位がたけーんだよ。体にいい食事を!とか言っておきながら、これじゃなにも食えないよ。

今日食うものを、食うべきものを判断するだけで頭が一杯になる。

国は配給食とかペットの餌みたいな栄養食でも配布してくれないのか。

 

趣味を削って健康にコストを振ればいいのか?そうはいっても、ここ数年の高い買い物は一人暮らしの家電とPCぐらいか。知れている。

それに明日、どことも知らんじいさんの車にはねられて死ぬかもしれないのに。

そもそも、区切りの良いところで死のうと思っているのに。

 

低賃金な俺が悪い。もっと稼げばいいんだ。俺は正社員を辞めたんだ。

どうして辞めたか?精神が破壊されたからだよ。だから精神がこれ以上破壊されないような生活を送ってるんだ。

精神が破壊されるような俺が悪い。精神が破壊されない程度の生活しか送れない俺が悪い。

 

 

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上述の組織の言い訳合戦みたいなものも、自己責任論や個人主義、競争社会が生んだ得体の知れない存在が原因だと思う。

責任がどこにあるか分からない組織、いや誰も責任を取らない組織。政治を見れば一目瞭然でしょう。

 

本来は「だれが」責任を取るかが100%重要という訳でもない。一つの問題に関わった人間はたくさんいるから、どんな偉い人間でも責任を一人で背負うというのは本質的には無意味だ。だってその偉い人が消えたらその問題はチャラになるのか?

 

ただこの自己責任で生きのびろ!という社会になったせいで、個人は環境やら貧富やらいろんな問題を「だれがどう責任を持つか」という裁量でしか判断できなくなっていると思う。物事を個人単位で帰結するものと信じてしまう。

 

 

「責任を持てます」というのは信頼できる証であるが(信頼の前貸しともいえる)、実際のところ進んで責任を負うような奴はいない。

その場合に人間の集まり(組織、企業、団体、クラスタetc)は組織という「総体」に責任を負わせることもできるし、特定の所属個人を人柱にして切り捨てることで総体にこびりついた「汚れを切除」することもできる。

 

一般人(その業界に詳しくない人々)は内情を知ることができない。

というか、個々人が他人を理解できないのと同じように、全てがつまびらかになることなどはあり得ないと思う。

結果SNSで目撃された「業界人」の発言を基に考えたりもするが、それはあくまで個人単位の一ケースでしかない。しかし結局、声のでかい業界人と情報を拡散する「社会の総体」になった一般人達が正しさを拡散する。多数決で。

 

「ペンは剣よりも強し」が本当になって、でもその言葉の意味は全く変わってしまった。ペンは誰でも持っていて、剣よりも入手し複製しやすく、人を殺しやすい道具だ。

 

 

客観性を求めれば求めるほど、泥沼にはまるように感じる。そして二者あるいは複数の意見の中で、自分の考えというのは引き裂かれる。

 

白黒はっきり、はよくないとされている、だから自分なりのグレーを見つけ出そう。

しかしそのような柔軟性やグラデーションを己の中に含有し続けることはとても難しい。

 

僕はもう30年生きてガチガチに固まってしまった。どれだけ柔軟で寛大で、かつ冷静さを失わずにいようと努めてもダメだった。

固まってしまった自己は柔軟性が無いのでバラバラに引き裂かれる。それぞれの意見を支持する自分の分身が殴り合いを始める。俺が一番正しいんだ、「正しいグレー」なんだって。

 

 

もう疲れたよ。誰も信じない方がよっぽどましだ。

昔小学校の先生が言っていた、人は一人では生きていけないと。衣食住やインフラ、それらは全て他の人の存在、社会があるから生きていけるんだと。

 

正しいと思う。でも社会は僕を侵食して破壊して、どこまでが自分だったのか分からなくしてしまった。いや、僕が悪いのか、ははは。

苦しくても一人きりで死んだ方がましだ。

 

 

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大切なことは目には見えない、と言った。星の王子様のキツネが。

文字だらけの世界で、大切なことを見失ってしまった、そしてそれはどんどん埋もれていって喪われてしまうように思う。

 

見えるものしか見えない。汚い、本音と建前が反発しあった爆弾。キラキラしたコンテンツと紙一重で見つけてもらえなかった星屑。何かに憑りつかれた人々。何にも憑りつかれていないと過信する人々。カメラ、カメラ、人々の目。

 

僕は見失うだろう。希望を持った、生存できる力を持つ人たちは美しいそれを見出すのかもしれない。そういえばゆとり教育で言われてた「生きる力」ってこれのこと?

 

ゆとり教育に染まれなくて本当に残念だ。おかげで生きる力がからっきし無くなってしまった。どうぞ生きる力が豊かな皆さん、生気を失った僕の分までパンを分け合って末永く生きてください。

 

生きたい人たちにリソースが生きわたって、不自由なく幸福に暮らせますように。

 

 

自分が言うとすごく気色悪く思われるかもしれないけど、この世に生まれてしまった生き物は人間含めて、できる限り苦しみの少ない世界であってほしかった。

 

 

 

 

 

僕は、人間ではないので。

以上です。

 

 

 

 

amazarashi/ 性善説

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20240206(実質賃金という語を知った、多面的な個人、通院と私生活)

twitterの治安。治安と言うか、傾向が変わったというべきか。

 

「実質賃金」という単語を初めて知った。これは今日僕がツイッターで知った言葉。

見た目のうえだけでなく、他の指数も鑑みつつみた賃金の推移のことだと思う。

何となく表面をさらってみて、まあ悪いんだろうなと思った。

 

(因みに僕が社会人として働きはじめたのは10年弱くらいで、実質賃金というもののグラフが停滞していた期間しか知らないらしい。

豊かさを知らないという意味で、つらさが増さないだけマシなんだろうか。)

 

 

詳しく調べたり勉強する気力はない。

景気がいい人は景気のよさそうな統計を、景気が悪い人は景気の悪そうな統計をみるだろう。その程度。

 

国も企業もメディアもSNSも、数字や調査の結果について誰も責任を取らない。だから解釈も自由だし、信頼度も個々の目分量という気がする。

 

生息地や生存戦略が違っているだけで、皆食っていくために頑張っているだけだし、多分そういう生き方しか知らない。

 

 

今よりずっと昔のtwitter

流行っているジャンルで学級会が起こる頻度は週に1回くらい、

芸能ニュースや政治の話は大して流れてこず、

 

何なら個々人のツイートばかりで(他所の記事や映像へ飛ぶことなく)リンクやタグも少なかった気がする。

短縮リンクというか、リンクが文字カウントされなくなったんだっけ。記憶が曖昧だが、技術的に貼ることができたとしても今でいう爆発的な「バズ」感はなかった。

 

トレンドもなかったのでFF伝いに診断メーカーやDecotterが流れてきて、

自分と似たジャンルやネタを見ている人たちは隣人という感じだった。

 

 

今は隣人なんて探さなくても「好みの界隈」を見つけることはできる。

好きな人を何人かピックアップして、その人のフォローしている人を見に行けば似ている人がいる。会話を眺めて同じ空気を吸っているような気分になれる。

 

でもそれは自分が外野から観測しているだけなのだ。あとから会話に参加したとて、よそから来た人という印象というか、隔たりは消えない気がする。

それは狙って「幼なじみ」をつくることができないのに近い。

 

 

週に一回だった学級会は、

政治・国際・芸能etcそれぞれのジャンルで、毎日のように小爆発を繰り返している。

 

皆ひどく疲れて見える。疲れていると思う。

でも誰もそれを楽にしてやることはできないのだ。twitter上での情報は個人どころか大きな組織ですら抑えることのできないうねりとなってしまった。

 

 

一つ気付いたのは、

(あくまでも自分の尺度ではあるが)暴力性や他害性を厭わず傍若無人に振る舞うアカウントをつくると、個々の問題に対して感じる「痛み」は鈍くなるということだ。

 

いっそ自分も倫理観や社会性を投げ出してしまった方が、SNSに流れる現実の社会の苦痛から逃れることができる。

というのは少し違っていて、痛みから逃げているのではなく皮膚が固くなっただけだ。

少し表面の強度が増しただけで、そのアカウントという仮面から離れてみると確かに痛みを感じる。

 

SNSでよく見かける「何にでも噛みついてリプを飛ばしまくるアカウント」とかだと、黙っているより言葉を投げつける方が痛みが和らぐんだと思う。多分。

FF外から失礼します、という言葉が喪われた世界。

 

 

隠してばかりはずるいので僕の「攻撃力の高い」アカウントの傾向を述べると、

基本は壁打ちや自分語り。自分語りが多いのはここも一緒だが、ここでは躊躇するような言葉(NGワードや蔑称とされる昔の単語、汚言等)が出てきたり。

 

他人に対して直接リプはしない。

いわゆる「お気持ち表明」、何らかの内容に「言及」はたまにする。

 

自分の中でライン越えしないギリギリのところの大喜利。それこそ「昔のインターネット」で頻繁に使用されたが今は使わない方がいいとされる単語とか。

嫌味とか。

 

あとこれは実際の社会的存在の自分と周囲の人々を守るためだが嘘、情報の誇張表現や非開示。

こういうのは現実世界でもやってる人はいると思う。僕は現実世界では人とあまり会話しないので、不要……

 

そんな感じ。飽きるか怒られるまでやるか、守りに入ったらやめようと思う。

実際このブログもかなり「守り」の時期に来ていると思う。もうすぐ一年らしい。

 

 

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まあそういう垢分け的な話にも通じるが。

Vtuberの転生先をたまたま知って、というか僕は以前にその人を何回か調べてその度に忘れるほど興味が無かったのだけれど、

今日改めて検索してみたりして、なぜか落ち込んだ。

 

その人の一面しか知らない自分は馬鹿だったんだろうか。

その「一面」と向き合ったとてたかが一面、氷山の一角なのだから。

いや、そういうのもおり込み済みで今までVtuberや実況者、ツイッタラーを眺めてきたつもりだったけれども。

 

「複数の人格」を横断して見た時、自分が相手にした心配も感謝も、

それはもちろん一方通行であることは弁えているが、

一方通行以前にまるで「そう思ったり感じたりすること自体」が無意味だったような気がして、途方に暮れた。

 

僕が「人格を所有する側」だったら平然と、そんなことないよと言う。

 

先述したように、僕はいくつもアカウントを持っているタイプのインターネット中毒者だ。もしそのうちの一つのアカウントで誰かと仲良くなったり、なんとなくいいね(昔でいう「お気に入り」)を返し合うようなことをしたりして、

そういうやりとりは他のアカウントを知らなかったとて、無意味になることはない。

それはそこのコミュニティ内だけであったとしても痕跡として残ったものであるし、その一人格から自己の総体へと伝播していく、と僕は思っている。

 

だからそういう気持ちは、良くも悪くも「中の人」の核心の中へ吸収されて受け取られていく。

と思っているはずなのだが。

 

人によってはそうじゃないのかもしれない、と感じた。

その人にとってはただの遊びで作った仮面で、仮面を割った翌日には全てがおぼろげな思い出に変わっている、とか。

まあ、それはそれでアリだと思う。

 

まだ生きて、なんとかやっているようであればよかった。そういう無責任で無力な言葉しか出てこない。

 

 

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通院。

先生と現状の共有、そしてそこから導かれるベターな判断が一致していてよかった。

要は現状維持なのだが。

副作用と使用上限の点からみて、これ以上増やすこともできるがリスクもある。

薬を増やすたびに色々悩まされてきた(それでも軽い方だと思う)ので、まあ増やしてもいいことはなさそうなのは予想がついた。

 

薬を使ってもやぶさかではないという現状である、

ということを僕自身が受け止めて日常を過ごすということだ。

 

しかし、良質な睡眠の確保・適切な量とバランスの食事・適度な運動という単語ほど虚しいものはない。

それができなくてこうなっているのだから。

 

そうやって開き直ったりのらりくらりかわすな!ということだが、体が動かないのだ。本当に。

脳内の教官然とした自分が「もっと休め!気楽にやれ、休憩しろ!飯をバランスよく食え、間食はしすぎるな!早く寝て起きろ!運動しろ!」と言ってくるが、

それをすべてやれというのは矛盾していると思う。

 

蟻と象が会話するくらいかけ離れている。

 

 

 

 

 

 

ゲームはできる。ゲームしかできない。

以上です。

アルセウス図鑑研究ポイント:95560pt

20240201

昨日も抑鬱的だったが、今日も朝から死にたさ

(厳密にいえば、将来うまく「終わらせる」ために

どういう手続きが必要か考えた時の

面倒臭さと家族に負担を強いる他ない絶望感)で満ちていた。

 

戸籍を分けただけでは、相続(=負の遺産も同様)の問題は発生するらしい。

その辺の処理も色々面倒だし、その時自分は死んでいるので家族や他人にやってもらうしかない。それは申し訳ない。

 

 

昔、母に「電車に飛び込むとその損害賠償は遺族にいくことになる」と教えてもらった。

それは自分事じゃ済まないんだから死ぬなということだったのか、

そうやって死ぬ奴は迷惑な人間だと言いたかったのか分からない。

ニュースを見た時の憤りだろうか、それを僕に言った理由も分からない。

 

でもたしかにその時、死ぬなら迷惑はかけたくないなと思った。

 

 

職場も7割くらい、普段元気に振る舞っている人も辛そうだったように思う。

昔から、大人ってこんなに苦しいものだったんだろうか。

政治とか事件とか災害、気象、色々あるけれど、昔だってそれなりにあっただろう。

 

 

そういえば父は今の僕より少し上くらい、40代くらいの時

「早く死にたい」と言っていた。

当日中高生だった僕は、それは悲しいということを言ったと思う。

でもそれ以上のことはできなかった、話を聞くとかなんだとか、

(一人間として信頼はされてない)子どもの言葉なんて無力で余計だと思ったから。

 

父は昔より仕事も落ち着いたようだし、そういうことは言わなくなった。

その当時、僕に死にたいと呟いたことは覚えているだろうか、よくわからない。

 

 

自分が幼いときの親の年齢に差し掛かったから、

20代よりも衰えを感じながらも子育てなんてしていたのか、と驚く。

僕は自分のことで精一杯だ。

 

 

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ポケスリで、昼ごはんに作ったチョコケーキを眺めたとき

リアルなチョコケーキだなあ、チョコを混ぜた生クリームに濃い色のチョコスポンジ、

三角ケーキにココアパウダーが振ってあって……

と、なんとなく感銘?を受けてしまった。

 

今の現実よりもゲームのチョコケーキの方が、昔の現実に近いと感じた。

かつての現実を模倣したフィクションと、

遥か遠い次元にまで行ってしまったかのような暗い現実、どちらが身近だろうか。

 

 

でも、昔の僕は既に死んだのだ。

今は体裁を保って成体の人間を装っている何者かという方が、自分にしっくり来る。

こういう中二病な文章も思想も、結局直らなかった。

昔の自分の記憶なのに、他人事のように感じる。でも暖かい。

今は無限に夢をみているような、一生余生みたいな感じだ。

 

 

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昨日はスライムを捏ねていた。

スライム動画にハマったついでに100均で買って、

捏ねていればつまみ食いやストレス解消にもなるのではと思った。

 

捏ねていると、だんだん

「神(実在宗教でなく、自分の中のそういう存在)はなぜ私をこの世に産み落としたんだ!!」という怒りがこみ上げてきた。

 

そういうのは父母の責任ではなく、神の責任のように感じた。

責任というよりは、自然の摂理に対する怒りかもしれない。

神は産みの親で、父母は育ての親という感覚。

 

自分はこの世に仇なす存在だという自認が、なんとなく出てきたように思う。

 

 

 

まだ預金があるうちはなんとかします。

以上です。

アルセウス図鑑研究ポイント:94140pt

20240128(ASMRを観ることの癒し、”完成”に至る疑似体験)

ASMR系の、スライムを色々する動画を最近見ている。

 

youtu.be

 

こういうの。

 

 

僕は元々料理(特にお菓子)とかミニチュア・プラモの造形とか、「なんかいい感じにキレイな空間」「なんかいい感じに道具が揃っている環境」でモノづくりをする動画が好きだ。

 

自分で何かを作るのも好きだけれど、それには初期投資や色々な手間が発生する。

日常生活を送るスペースと分けるとか、作業を好きなタイミングでやめられないとか、時間的にも空間的にもそこまでする余裕がない。

学生くらいまでは実家住みだったし時間もそれなりにあったし色々できたけれども、道具を揃える資金は無かった。

 

 

もう(金はないが、それなりに自由が利く)大人になったので、費用面に問題はない。

けれどもそれを洗練された、少なくとも自己満足の域まで使い通せるかどうか。

1,2回触って終わりかもしれない、それどころか何も手をつけずに終わるかもしれない。

 

(昔から進研ゼミを放置してしまうタイプ、序盤は張り切るけど熱意が続かない人間だった。無職時代に資格の勉強をしていてわざわざ教材まで買ったくせに、それも途中で放棄してしまった。自分の金だから進研ゼミよりはマシだけれど…

実際、秋頃に買ったグレイスカルピーと造形用ヘラも放置されている。幸い開封していないし時間経過で固まることもないので、また一年後くらいに粘土欲が高まったら触りはじめるだろうと思う。)

 

 

そういう気力がないけどなんとなくゲームや画面を眺めるだけでは収まらない時がある。脳がむずむずするというか、作業したいという欲求みたいなものが。

 

最近そういう状態で知ったのが上記の動画だった。

パン屋さんとか陶芸とかされていたんだろうか、スライムを捏ねるのがとても上手だし、

その捏ねている様子を一人称的な視点で見られることで、「脳のむずむず」が収まるような感覚がした。

 

 

 

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今までASMR(耳かきとか)はあまりピンとこないというか、

シチュエーションボイスとかはストーリー性があるけれど、そういう音自体の良さ、耳の快感が…とかクセになる…とかがよくわからなかった。

 

強いていうなら「サクサク、バキバキ」系の音が好きかもしれない。

自分のよく食べすぎる原因としても多分「何かを嚙みたい=バキバキ脳に響く音が欲しい」のかもと思った。これからは惰性で何かを食べ続けそうになったら、こういうASMRを聴くと気が紛れるだろうか。試してみる。

 

 

多分僕自身が、視覚情報処理優位で音声情報に弱い鈍感な耳だからピンとこなかったのかもしれない。電話も得意じゃないし、複数人が同時に会話している環境だと自分と会話している人の話以外も混入してきてしまう。

 

無職から1年後くらいに仕事を始めた時、周りの人の雑談がとても早口で聞き取れなかったのを思い出す。実際のところは慣れれば聞き取れるし、早口というより音声会話そのものが久しぶりだったからだと思った。

声も掠れていたし支離滅裂でどもっていたと思うが、だんだん日常会話に支障ないくらいの話し方にはなった、一応。

 

 

 

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僕は視覚的にも見応え?のあるというか、一人称視点的に疑似体験できる感じのASMR動画が好きだ。

「私とあなた」ではなく「私=あなた」になって自己投影して、必要な道具ときれいな机と十分な技術力のある腕でモノづくりの過程をなぞり、完成させる。

 

それでなんとなく報われたような気持ちになる。ああ、ちゃんとゴールできてよかったと。

 

 

僕個人の方でも趣味の作業は色々としているのだが(度々ゲームの誘惑に負け、時間を奪われているけれど)、

やっぱりゴールは果てしなく遠いし、毎回多少なりとも準備は必要だし、その時気乗りするかしないかが気まぐれなので余計に見通しが立たない。

仕事のように締切もないし、誰かに見てもらえるほどのものでもない。だから気負わずともよいのが楽でいいのだが、タスクとして脳内にずっと滞留しつづけることもある。

 

早く終わりにしたい。早く解放されて次に進みたい。早く「過去」として積み上げてしまいたい。

 

 

…………

だから、こういう動画を撮るのは並々ならぬ手間と時間と費用の投資が必要なのだ。

僕はどんな動画でも、作った人(あるいは陰ながら編集等をしている補助スタッフの人)のことを尊敬…というか、そういう苦労を乗り越えてきたというだけですごいと感じている。

 

それらに視聴数は関係なく、とにかく動画を切り貼りしたり文字を入れたり演出したりするのって、本当に大変なのだ。それを”完成”まで持っていける人はすごい。

僕は色々挫折しすぎて無駄になってしまったものを沢山持っているから、余計にそう思う。

 

 

 

そんな感じです。

アルセウス図鑑研究ポイント:93390pt

「事務所」について何も知らない人間の、V事務所や芸能界とかの感想

にじさんじの緑仙が休止期間に入るとのことだった。

 

元々好きで(特に、企画モノの作り方が上手いところとか)チャンネル登録していたものの、僕自身が浮気性なので色々じっくりと追えてなかった。

あんまり傷つきたくないから(僕自身の精神の自衛のために)お知らせ配信も少ししか覗いてません。ごめんなさい。

そういう程度の人間が書いてるのでファンの方(そして万が一にもあり得ないとは思うけど、ご本人)は一感想としてみなさなくても全然いいです。

 

 

一年半前くらい?からなんとなく緑仙の気持ちってどうなのかなとか気にするようになって、実のところ配信が観られなくなっていた。

どうなのかなというのは、彼の努力の方向性を事務所は見てない感じがしたからだ。

 

そして本人もそういう「運営陣の箱売り、キャラ売り前提の営業」っぽい変化に気づいてる(というか、内部の人間なんだから外野よりよっぽど生々しいところまで見ている)んじゃないかなという気がした。

 

彼はかなり自力で頑張れるタイプであり、

「自力で企画実行する力、周りと協力したり、事務的な打ち合わせとか演者がやる以上の作業をこなして、企画を当時のテレビバラエティー水準くらいまで引き上げる力」

があったから、初期のにじさんじ(今よりギルド感が強かった気がする)では重宝されていたと思う。

 

 

同様のタイプが黛灰だったが、彼は更に自分が関与するモノすべてに目を通してチェックしていた人で、

運営側が段々勝手に物事(にじさんじ箱企画とか企業コラボとか、個人配信の絡まない部分)を進めていたりとかしていたので不信感、コントロール不能が高じて辞めてしまった。

(と記憶している。個人的な所感)

 

で、初期のにじさんじは個人規模ではどうにもできない部分(予算組みや関係者とのアポイントメント、権利関係の許可申請等)を補助して、後は個々の自主性に任せている感じだった…と思う。

だから緑仙の実行力も光る、活躍できる場所だった。

 

 

 

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でも今は箱売りやライバーの「モノ化」、キャラクター性を切り取って売る、昔ながらの芸能事務所の悪い部分を抽出したような場所になってしまってるんじゃないかと思う。

(スタッフや現場の人たちは良い人たちだとしても、「組織」としてのコントローラーを握っているのは経営者なので、その辺りの方針転換があったのでは…と思う。)

 

 

具体的な流れで憶測すると、

初期~2019年デビュー辺りまでのライバーの中で固定の組み合わせが発生。

この辺りは「クラスで仲のいい友達」的なゆるい繋がりで、本人たちの自主性に基づいたグループは息が長いイメージ。

同期繋がり等のコラボもあるものの、それはそれで一回きりだったり。けれども事務所側に強制力もないし、いい意味であっさりした関わりも多かった。

上記のゆるい繋がりや小規模なグループ(「箱」の前身)が好評だということに事務所側が気づき、

2020年くらいから「公式としてお出しする箱」を意識しはじめる。

以降は基本「ライバーの自主性でなく事務所側が指定した箱」デビュー、

企業とのコラボグッズ等に箱の概念を適用しはじめる。

過去のテレビ企画を模倣した感じのバラエティ企画(ライバーが発案したのかどうかが不明瞭)が現れはじめる。

 

※テレビ企画の模倣に問題がある訳ではなく、企画やキャスティングや番組の流れが概ね決まっていて(もしくはライバーのアドリブに期待して)、ライバーはあくまでも「出演者」として出てくれるだけでいいですよ~という雰囲気。ライバーを半分お人形扱いして動かしてる…的な。

 

 

事務所はタレント(所属する人間のキャラクター性)を所持していて、招集して番組を作ったり、案件に「貸し出し」したりできる。

そしてこの状態の行き着く果てがまさにジャニーズ、宝塚、吉本等々の事務所問題だと思う。

 

飛躍しすぎに見えるけれど、要は

「人間をキャラクター・アイコン・モノとしてブランド化して、本質的には組織の手駒とする。」

ということではなかろうか。

人権ある一個人とみなさない。あるいは、規格外の力を持った「神」的な崇拝。

 

 

 

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Youtuberや実況者、Vtuberの話で何かと問題視されてきたのは

「構築した(または本人の意思に関係なく構築された)アイデンティティを、現実とイコールとすべきか否か」だと思う。

ある存在を「一人の人間」とみるか「キャラクター」とみるかは本質的に相容れない。

 

だからやる側も見る側も上手くバランスをとりつつやっている。

どちらかに極端に傾くと色々問題が発生したりする(犯罪・ストーカー、同人問題、公私をどこまでさらけだすか&それをコンテンツ化するか…等々)。

そもそも、人間=キャラクター100%にはなれないと思う(映画『トゥルーマン・ショー』とかをみても…)。

 

 

アイコンは、つまりイコン(偶像)である。

偶像は本物の神ではないが崇拝の対象になる。

偶像に人権はないし(神をかたどったものだから)、衣食住や生物的な物事に関与しない(故に”清潔”であるとも)。

アイドルも、広義的にはそうですね。

 

だから理想に近づけば近づくほど、本来人間であった人たちは「モノ化」していく。

そのアイコン・キャラクターを獲得していくほど、それ以外の部分は社会的に無かったものとされる。

 

 

こういう、芸能人の公私にどこまで踏み入るのかという話は

芸能(テレビ)の世界では数十年かけて「キャラクター化・モノ化」に価値が置かれてきたと思う。

 

(だから「人のモノ化」が芸能界ではどんどんエスカレートして、

一方現代ではSNSが浸透して一般人もそれなりのアイコンを持つようになったからこそ

「このテレビの演出や人の扱い方って問題だよね」という認識が芽生えて、

今まで金や権威で意見を黙らせていたテレビ各社や事務所の力もなくなってきて、そういうのが明るみに出てきていると思う。)

 

Youtuberや実況者、Vtuber

身の安全は?プライバシーは?個人の意思は?という問題は、上記のような

「芸能界のお約束」がないからこそ問題提起されやすいことであり、

けれど自分(演者、視聴者共に)と相手との地続き感が「テレビには無い良さ」でもあったからこそ答えの出ないものになっている。

 

 

 

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話が飛んでしまったけれども、芸能事務所化の進んだ大手Youtuber/Vtuber事務所は

もう「モノ化」が進み切ってしまっていると思う。

 

そういうところで主体性のある「手駒」、タレントはどう扱われるのかというと…

その主体性を切り取られ、キャラクターとしてのガワを与えられ、その役に徹しなさいと諫められる。と思う。

黛灰はその辺りをもう先読みして(というかそういうのが実際あり)、半ばそういう部分ににじさんじ事務所が足を踏み入れているのに気づいて去っていったんじゃないだろうか。(憶測)

 

緑仙については、今までの繋がりもあるし事務所を初期から見ているから本当に色々考えたと思う。

ここ最近の配信というか売り出し方は、毒舌系というかバズ狙いの炎上系っぽかった気がするけれども(僕は怖いのでサムネと配信タイトルしか観てません)、

それも半ば意図したものだったと思う。

「本音を言う」ことの人間性と、「毒舌、ズバッと言う系」のキャラクター性の両立で折り合いをつける…というか。(憶測)

 

 

 

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アイドルやYoutuberを目指す人たちはある時点で、

どこまでを血の通った部分にするか、自分のどこまでを「モノ化」するか考える時が来るんだと思う。

 

そして恐ろしいことに、その「どこまで」というのは完全に自己コントロール下に置くことはできない。

観る側であったり、アンチや外野によって数年分の構築が数時間で歪められたりする。

 

(しかもそれらは「社会の客観的評価、理性ある世論」ではない。

母集団が極端に偏っている場合がほとんどなので、尾ひれがついて「特定の層の歪んだ視点」が極端に強調されている幻のようなものだ。

そんな大きな歪んだ視点で見つめられれば、誰だって気が滅入る。気が滅入るどころの話ではなく、気が狂ってもおかしくない。と思う。)

 

 

事務所は本質的に守ってくれない。

弁護士費用は出すし声明発表もするかもしれないが、ストーカー犯を特定するような力も、SNSの拡散力を押さえつける力もない。

「売り出す」方向性の企業努力は諸手を挙げて尽力するかもしれないが、それは事務所にコントロールされるということでもある。

 

 

 

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この話に落としどころはない。僕の勝手な所感で”言及”だからだ。

 

個々人は、個々人の善きようにやっていくしかない。

 

 

 

 

 

 

以上です。

20240126

多分疲れているんだろうが、体調が自分でもよく分からなくなってきた。

ぼんやりするか無心で周回できるゲームしかできない。寝る前の15分くらいで急にやる気が出てきたりするし、謎すぎる。

 

 

仕事で精神をやってから

(というより、人との対話がめんどくさいから我慢する・手助けを断る・遠慮するというパターン化が子どもの時から形成されて、社会に出て顕在化したのかもしれない)

自分の体力が残りどれくらいかわからなくなった。

 

これは普通の人というか、私も学生くらいまでは分からなかった感覚だが

「体力ゲージ非表示の呪いがずっとかかってる状態」というか…。

 

 

The Binding of Isaac(邦題:アイザックの伝説)というローグライクゲームがあるのだが、その中に体力不可視化の呪いがある。

ゼルダの伝説の「♡(ハートマーク)」みたいな感じでライフが表示されるのだが、これが分からないと結構つらい。

 

特にこのゲームはライフと引きかえにいい装備や効果を得るという選択も可能なため、残り体力が見えないということはそれだけ「選択肢が減る」ということだ。

(もちろん非表示になる前に自分のライフを把握してメモでもしていればいいのだが、地下ダンジョン形式でいう「次の階層に入った」瞬間に呪いがかかるためいちいちそんなめんどくさいことはしていられない。)

 

 

現世ってそれに近いな……と感じ始めた。

残り体力が多ければ命を削って逆に後々の状況をよくすることもできるけど、自分が残りの命の残量を知らないとできない。

 

普通なら「仕事で疲れたな」とか「昨日は夜更かしだったから眠いな」とか感じるけど、大学生→社会人(正職員フルタイム)→無職→社会人(非正規notフル)という過程を経て、僕の感覚はぐちゃぐちゃになってしまった。

 

「疲れたから休む」が通用しない(と自分で思い込んでいる)時期があると、自己暗示で自分は疲れていないから仕事できます!モードになる。

そうやって残業とか、「人間として」苦手なことを「社会人として」苦手じゃないと思い込むようにした。

それでできるようになったこともあるけど(電話とか)、生物としてはあべこべな存在になった気がする。死ぬのが分かっていて火の中へ飛び込むみたいな……

 

 

(僕が世界大戦下の日本に生まれたら、心の奥まで日本に全てを捧げたと思う。

それくらい純粋すぎる子どもで洗脳されやすくて、危なっかしい気質だということを把握できて、

何より一応は戦争が起きていない状態の日本に生まれて無事でいられる。

 

まあブラックな職場にいたから大して本質は変わってなくて(職場の変なルールとかに従ううちに「そうすべき」と思い込む、批判的な視点が消失する)、

生きてるか死んでるかというだけの話かもしれない。)

 

 

話がズレまくったが、いつまでも若いつもりでいたらだめだよという一般的な話に落ちることではある。

 

最近はというか、秋からずっとアルセウスをやっている。ただこれはこれで頭を使うので(並行してタスク埋め、素材収集をしてたりするので)

もっと感覚的にリラックスできる音ゲー(僕はMuseDash)をやっている。

「計画通り」を販売終了前に買ってて本当に良かった。僕は不良少女リン・ゾンビガールブロウ・人間化オラ・シスターマリヤが好きです。

 

 

 

 

以上です。

アルセウス図鑑研究ポイント:92390pt

20240121(アルセウス任務全クリアした、その他日常)

年末年始&連休で変則的な出勤と休みになっていたのもあり、

気候や社会の動向や「年末年始から日常に戻す作業」もありで色々ぐったりした。

人混みには行きたくなかったけど行かざるを得なかった。

 

 

最近はやっと僕の行動範囲はいつも通りの様子になってきて、なんとか日常が戻ってきたと感じる。

(少なくとも、僕の小規模な範囲の日常だ。マクロ的に見れば絶望してしまうので、休み休み確認している。)

 

観光客や複数人での大移動みたいなのが少なくなってきた気がする。

逆に、年末年始の北海道に何を見に来るんだろう。(雪まつりもまだなのに)

 

 

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アルセウスはサブ任務も埋めて、(他のポケモンソフトとの連携で発生する任務以外は)全てクリアした。

自分でも少し驚きだ。特にいっぴき道とかはバトルだしレベリングが必須だし無理だと思っていた。

(最後に残ったサブ任務は、コロボーシのいっぴき道だった。)

 

これで力尽きた……という感じでもなく。まだ図鑑タスクが全然埋まっていないので、終わった!という感覚がない。もはや生活の一部。

いつ他のゲームをやれるのかが怖い、一生プレイしてたらどうするんだろう。

(無理矢理やめることもできるが、他のゲームに手がつかなかったり再プレイに抵抗感を感じるようになったら辛いのでやめない。とりあえずぼちぼちやっていくと思う。)

 

 

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日常のリズムが戻ってきたということで、年末年始に入る前にやっていた創作系の作業(音楽とか、創作とか)をやっている。

 

音楽は動画を流しながら作業とかもできないし、ヘッドホンで作業しているので噛み締めや肩こり、頭痛が発生したりする。

(最悪ヘッドホンはなくてもいいが、細かなズレとかに気づけなくて後から直すのが大変面倒くさいのでした方がいい。)

 

 

仕事も事務作業だし、公私ともに画面とにらめっこする時間が多いのでよくない。と思い、軽い筋トレやストレッチを罪滅ぼしとしてやってみたりする。

鍋ばかり作るのに飽きて肉とか焼いてみたり。

年末の繁忙期にストレス解消ドカ食いしてたからか太ったし、食へのマイナスイメージは増える一方だ。

 

新鮮さというのが無いので、楽しいとかはないが「苦痛から気を逸らせる」「熟考状態から抜け出せる」という意味で家事を挟むのは有効だ。

それはそれとしてやりたくないので、怠い怠いと思いながらやっている。

 

 

苦しみを少しでも軽減できると信じて、果てしなく広い地面を歩く虫のような気持ち。

人間の手が行く手を阻んだ時、ああこっちはよくなさそうだと感じて進路を変える。

また目の前に新たな壁、人間の肉壁が現れて道を塞ぐから、それをよじ登ったり少し飛んでみたりする。

人間が解放するまでずっとずっと、ここから抜け出せない気がする。もう殺されてしまうしかなくて、解放される事もないのかもしれない。

 

そういう暮らし。

 

 

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寂しい夢をみた。

僕は小学生で、ちょっとしたワルい行動のつもりでふざけて、サボったりいたずらしたりしていた。

夢の中で何故か同級生だった某実況者が、そういうのはよくないことだと僕をたしなめた。○○君そういうことするのはよくないとおもいますー。

 

僕は少しムッとしたが、同時に傷ついた気持ちになった。

そこで何か、ケンカしたり謝ったりして仲直りできればいいのだが、夢の中でも僕は何もできなかった。僕は人間関係を修復するのが得意ではないので、なるべく関係を損なわないようにして「繋いできた」タイプだった。昔も今も。

 

だから、叱られたり怒られたりで関係に傷がつけば、そこでさよならなのだ。

最近(人混みが過ぎて、他者に対して)攻撃的な気持ちが強くなっていたので、自分なりの自戒の夢だったのかもしれない。

 

某実況者は、個人的にすごく親近感を感じる人なのでよりショックだった。兄がいればこういう人だったろうなと思った(気色悪いファンで申し訳ないが)。

 

 

目が醒めて面白い夢だと思ったけど、しばらくして思い出してみてひどく切なくなった。

大人になってからは人間関係が希薄でも平気だったけれども、夢の中で小学生だった僕には堪える出来事だったんだと思う。

実際、子どもの頃はたくさん傷つけたり傷ついたりした結果、仕方なく諦めたようなものだから。

 

本当は、また悪ガキのように人の顔色を窺ったりせず、無邪気に誰かと遊びたいのかもしれない。

 

 

 

そんな感じです。

アルセウス図鑑研究ポイント:89880pt