趣味の延長として自らが課している作業が「楽しい」と感じられるかどうかって、その時の生活環境によるよなあとふと思った。
僕はここで文章を書いたり、ゲームの攻略的なものを書いたりしている。
ここが続いているのは、そのくらいの運動強度ならぬ「作業強度」がちょうどいいからだと思う。
実は何かまとまったものを書き、文学賞とかコンクールに応募しようかとも考えていた。けれども、深く考えずに書ける場所があるとそちらに気を取られてしまう。
何より、腰が重い。疲れるし、無職の時の自分には追い付けないだろうというのがなんとなくわかっているからだ。
真面目に文章を書くとなると無職時代の方が向いていたし、感性が瑞々しいというか生々しいというか、自分の書きたいものを書いて推敲する能力が今より冴えていたと思う。
それは一般的な「冴えてる」との比較というより、無職の自分と条件付きながらなんとか働いている自分の比較だ。自分の中での比較だから、確証も強い。
だから創作するなら絶対に無職の方が強い!と思っていた。
けれどもふと今日考えてみると、そういう「無職の間に趣味をやることの虚しさ」みたいなものも思い出した。
自分の趣味のために絵を描いたり、文章を書いたりすることは確かに無職の時でも楽しかった。
けれども目が醒めるような、冷めた気分になることもあった。
「これで収入が得られるわけでもない、誰かやどこかに求められるわけでもない、そんな「埋もれていく創作物」に時間を費やすのは無駄だ」
収入もなくなり節約や公的手続きを意識するようになると、趣味に一定以上に入れ込むことは賽の河原のような行為だと思った。
今、働きながら40%くらいの出力でやる趣味は楽しい。
僕自身は作品づくりを一気に終わらせたいタイプで、そこは変わらないしペース配分も下手だ。睡眠時間を削ったり他のやるべきことを放置してしまう。
しかし働きながらだと、集中力も体力気力も仕事や人付き合いや移動にある程度割かれているので、強制的に出力の絞られた状態になるんだと思う。
出力が弱いから完成まで至れないかもしれない(飽きるかもしれない、気が変わるかもしれない)という焦りは常にあるし、もどかしい。
けれども強制的に上限設定されることで、なんとか人らしい生活を保てている。
バランスのいい状態はきっと今だけだ、と思いつつ。
そうやって諦めていれば、いざめちゃくちゃになっても悲しさが軽減される気がするから。
そんな感じです。
アルセウス図鑑研究ポイント:84020pt