定休日。
僕は人が同じ空間にいるのが嫌なので(人間のふりをしなくてはいけないから)、基本外に出ないで、ゲームをしたり溜まった家事をしたりしている。
今日は家事もサボってしまった。
実況とか配信とか歌とか、真剣に誰かを追っかけられたことがない。なので毎日ザッピングして、数週間のブームがあったりして、また他の人の配信を見てたりする。
それが巡り巡って一年後とかに再来したりしている。
第五のデータが飛んだことをきっかけにというか、久々に第五界隈の配信者さんを見てまわったけど
(僕は一時期ハンター専でランクマをやってて、そのときのトラウマ?で今でもプレイ動画観るのが若干怖いので、のぞき見程度)
皆さんご健在で、大会をやったり他のゲームを挟んだりして配信を続けていてすごいなと思った。
僕はしんどくて逃げたようなものなので……
=本日のプレイリスト(主にYoutube)=
まふまふ(cover)『Lemon(米津玄師)』
amazarashi 『アンチノミー』
amazarashi『穴を掘っている』
∴flower×可不『バーバヤーガ』
女王蜂『HALF』
配信(すあださん・ニコニコ時代)
配信(逃さずの石橋さん)
配信(プリコさん)
ドレスコーズ『襲撃』
女王蜂『雛市』※個人で買ったCD音`源
他諸々…………
こういうのを書いておくと、後から読み返したとき面白いかな。それとももう二度と読み返さないだろうか。
これも最近twitterで見たやつだが(よかった言葉は発言者IDと共にスクショをしているのだが、今回は遡れなかったので曖昧)、
「いいことや楽しかったこと、ポジティブなことは記録しておこう」とあった。
僕はどちらかというと、本当は人様にお出しできるようなものではない塵芥をここでは書いている。
そういうのを話す相手もいないし、別の自己表現(文章を書く、絵を描く、ものづくり)に昇華させる余力がなくなってきたからだ。
昇華させたものを出していた時は、それなりに内容にも気を使っていた(今時の言葉では「コンプラ」だろうか)。
マイナスに偏りすぎず、独りよがりにならずあくまでも作品として完成させるように努めた。
だから今ここでは、(感想とか考察は別物として、日記的な部分では)マイナスなことばかり記録されていることになる。
でも「同質の原理」というような言葉もあるし、自分や他人のマイナスな文章に惹かれてしまうところがあるから、ポジティブなことには背を向けがちである。
ポジティブな出来事、というのは僕の中ではなにか排他的な感じがして、元気をこちらに押し付けて侵略してくるような怖さがあった。今も。
最近は、子ども時代に叱られたこと、言葉足らずで怒らせてしまったこと、自分は悲しかったけどもうどうしようもないことばかりが思い出される。
それは学生時代から多少予兆はあったので慣れてきている。
けれど最近気づいてショックだったのは、子ども時代に楽しいと思った記憶、モノやエピソードなどが年々思い出せなくなっていることだ。
昔は学校が楽しかったらしいという証拠は、実家の部屋の片づけをしている時に見つけた(絵を描いていた)。
でも今では何が楽しかったのか、よく思い出せない。まるまる全て忘れた記憶も多々あるだろう。
あるいはエピソードだけは思い出せても、それを思い返して「楽しかったな、面白かったな」という気持ちになれない。学校帰り、自分の部屋や友達の家、公園。
実家に帰る時にその名残を見ても、他人の記憶の伝承を引き継いでいるような気分になる。
前述した「ポジティブに対する抵抗感、恐怖感」もそれに拍車をかけているかもしれない。
子ども時代の自分は死んでしまったんだな、と思う。
そして残るのは受け入れてもらえなかった記憶ばかりで、でも「今現在の」相手にそれを訴えるのは違うのだ。
周囲の人間も自分と同じく時の経過で変わってしまっている。言っても無駄だからとか、許したからとかではなく、別人だからというのが感覚的に一番近い。
それは中高生、浪人生の時や、大学、新卒、無職の時の自分に対しても同様で、他人のようで、僕はその度に自我を喪っている。
だから、今現在の僕の「自我的なもの」はきっと数年後には消えて、別の自我が生じているんだと思う。
話が遠回りしてしまったが、その時聴いていた音楽や漫画、動画、その他諸々をどういう風に感じたか記録しておかないと、本当に他人くらいの距離に遠のいてしまうのだと実感した、という話でした。
以上です。