ちいかわ、人魚の島編がようやく終わりそう。
永遠の命で生き続けることは、永遠に死に続けている
(つまり、ある瞬間死が訪れてそれから生き返ることがない)ことと
ほぼ同じなのかもしれない。
無実の罪で襲われる島の皆を眺めながら多分ずっと迷っていたんだと思うけど、
(まだ逃げ切れば、別の生活があるかもしれないから)
ちいかわ達という外部のやつらと関わって、自分達がここを出て「全く今までの人生と関係のない世界で幸せになる」ことよりも、
「長く生きた小さな生活圏で、ある意味での終わりを知る」ことのほうが自分たちにはしっくりくると思ったのだろうか。
どこかで聞いた話で、これは虚しくて好きな話なのだけれど、
「籠の中の鳥は、籠の扉が開いていても逃げ出すことがない。
籠の外で生きる世界を知らないから(イメージできない、無力感に囚われる、みたいなニュアンスだった気がする)」
みたいなのに近い気がする。
↓完結まで見た上での続き記事
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他人の生き死にの話とか、生きる苦しみとか自殺未遂とか、そういう話ばかり追ってしまう。
(完全に良くないムーブなので、軽蔑されても仕方ないことです。僕に限って言えば。他の人がそれをしていたところで、僕が言える義理もない)
仲間を探してしまう。
それはスキャンダルを追いたいとかではなく(興味本位、とは言えるかもしれない)
ただ自分に近そうな人々が、今どういう状況にいてどんな風に考えているのか、覗いてみたいのだ。
大学生の頃、臨床心理学(特に昔で言う分裂病、多重人格の話など)関係の本をよく読んでいた。
それもやはり「解決のために何ができるか?」という医学的目的ではなく
「一人でも誰か自分に近い感覚を持った人の証言を聞きたい」というのが動機である。
(ちなみに、僕は臨床心理学を専攻していません)
病人同士や患者と医者同士で親しい関係ができてしまうということも少なくないようだと知った。
それはとてもわかる気がした。人間のいる星で宇宙人の私が、たまたま同じ宇宙人に出会ったような。
でも、基本的に感情の制御がきかない者同士は、破綻してしまうことが多い。
片方が助けを求めた時、もう片方が助けられる状況にあるとは限らない。
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粘土に触りたいかつ途中でいつでも止められる環境がほしいので、グレイスカルピー購入を検討している。
油粘土って、昔はなんのために存在するのか不明だった。臭いし。
グレイスカルピーはもう少し使いやすいのではないか、と個人的に思っている。
でも。多分僕は途中で投げ出すだろう。
飽きてまたゲームやら絵や縫い物やら、別のことを始めるだろう。
そう考えると、何もしたくなくなってしまう。半端なものばかりが足元に転がっていて、場所も占領される。
大人になる?と、ああこれは最後まで完走できないな。みたいな理由であらゆることを諦めてきた。
今回は諦めてもいいから、新しいことがやりたい。縫い物はまだ終わってないという罪悪感があるけども。
以上です。