なあ、チャッキー。天国はどれくらい、ひどい?
――円城塔『バナナ剝きには最適の日々』より
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このフレーズを、久しぶりに思い出した。
この台詞は僕の大好きな台詞だ。
僕がまだ前の職場で働いていた頃、
色んな部署を転々として、それはいいことなんだと偉い人からは説明されて、でも自分は毎年一年生から始めるのに手一杯だった頃。
その時にこの表題の文庫本を買った記憶がある。円城塔(敬称略)が好きだから。
昼休みに読んでいたが、昼は省エネのため室内の電気はほぼ消灯されるので、
結局本を読む習慣はつかなかった。この本も中途半端にやめてしまった。
時が過ぎて、僕が数年務めた職場を辞め、鬱病治療を始めた時。
精神科の待合室で再び、この本を読んでいた。
文庫本で軽かったし、何より僕は円城塔の文章が好きで、
一文一文に身が詰まっているというか、読む過程自体に面白さが感じられて、
待合室で自分の番がきて物語が途中で遮られたとしても、その良さが減じない。
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この短編は主人公(と思われる何か)の一人称視点で語られている。
主人公は宇宙空間でひたすら星に着陸し、旗を置いていく。
それはなぜなのか、それらしい話があったりなかったり、
その「旗を置く仕事」や彼の環境、経緯、ゆくゆくのことについて語られるが、
全てはふわふわしている。目的も予測も、彼の存在意義も。
チャッキーとは、かつていたらしい友人のことである。
友人といってもイメージ上の存在で、彼はしばらくチャッキーと共に過ごしたが、
ある日ふとチャッキーは消去された。
彼の存在意義は旗を置くことだけではなく、「機会に判定できないものが現れた時」のためのものでもあった。
目の前のものは宇宙人であるか、どうか?等。
彼が「正常な思考で」その機能を果たすために「思考逸脱阻止回路」というものが積まれており、
それによってチャッキーは消されたらしい、という情報のみが彼の手元にはある。
そのことについて彼は色々と思いを巡らせるというか、思い出ではなくて
「チャッキーが消されたことと、それに対して自分が取りうること」とか、
様々なことを連想ゲームのように思考する。
結局彼は友人を取り戻すことはできない。本人も勿論それはわかっていて、
全てが冗談みたいに思考をふわふわ弄んでいる。
弄ぶ程度でないと、また思考逸脱阻止回路に干渉されるから。
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バナナ星人の話。
タイトルにあるバナナは、宇宙に漂うバナナの皮とかいろんな形で出てはくるが、
それらは主人公の思考のきっかけにすぎない。
僕はこの話に登場する、バナナ星人の話が好きだ。
バナナ星人は皮が三枚に剝けるか四枚に剝けるかで抗争を続けていて、
しかし実際に三枚か四枚かは、死んでしまって実際に皮を剝いてからでないとわからない。
それがバナナ星人の愛憎交わるエピソードを生み出す。
勘違いやら狂気やら、バナナ星人は剝いて剝かれて悲喜劇を繰り広げる。
(しかし全ては、主人公のイメージ上の「遊び」でしかない。)
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何かが起きる準備はできている。できうる限り柔軟に。可能な限り鷹揚に。
そのくせ、何も起こらない。起きるだろうと予期されていたことさえ、今のところ起こっていない。多分、このまま壊れるまで、何も起こることはないのだろうと思っている。
宇宙に行けば何かあるだろう。しかし何もなかった。
何もなかった場合はどうするか。
僕はなんとなく、自分の人生ってこうだよな、とおこがましくも共感してしまった。
一応すべきことはある。すべきでないこともある。
役割は与えられているが、重要ではない。何か有事の際には切り捨てられるのだろう。
ふわふわと考える。
他に考えるべきこともないから。考えるべきでないことまで考えてもいけないから。
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「天国はどれくらい、ひどい?」
ツイッターは、毎日ひどい情報が流れている。
ニュースも、めちゃくちゃではないかと思うような内容ばかりだが、もうそれにも慣れてしまっている。
逆に切実でめちゃくちゃなことでも、ニュースでは取り上げられず、数時間の情報の濁流に流れていく。
出勤すると、電車には多くの人が、生身の人間が乗っている。
今まで通り魔と鉢合わせなかったのは奇跡なのかもしれない。もしくは逆に僕がネットに毒されているだけで、世の中はもっと清らかな空気が流れているのかも。
僕は道行く人々の半数近くは、この世にどこかしらうんざりしているのではと感じているが、それは僕が悲観的なだけで、もっとみんな希望や楽しいことを実感して生きているんだろうか。
同じ空間にいる(はずの)人間たちと誰とも話さずに歩いていると、宇宙を漂う宇宙船……それ以下、漂流物のような気持ちになり、思い出す。
とうに失われたものに対する、諦念に似た台詞。
「天国はどれくらい、ひどい?」
以上です。