壁打ち

感想、考察、日記、メモ等

20231105

基本的にゲームしかしていないので、ゲームか抑鬱的な文章ばかり書いてしまう。

後半センシティブな内容になるのでご留意ください。

 

======

これは書いただろうか?

アルセウスが割と初期ポケモン時代の人間の解像度だなという話。

前後のポケモンシリーズをあまりプレイしてないのでそっちも同じかもしれないが、モブキャラのグラフィック(≒3Dキャラクター)が色違いとかであまりバリエーションがない所とか、昔のポケモンっぽいなと思う。

 

その割にオープンワールド感があるし「今時のゲーム」感があるので、説明文とか定型文みたいな文章を話す村人やギンガ団員を見てるとちょっと現実的じゃなくてシュール……と改めて思った。

昔はドット絵だしポケモンのアイコンすら数種類しかなかったので、あまり気にならなかった気がする。

物理的な解像度が上がれば、人としての写実性?もある程度上げないとちぐはぐということか。

 

シリーズを重ねるごとに主人公が男女で選べたり、ジムリーダーのビジュアルの多様化&ポケモンをモデルとしたデザインにシフトしたり、「個人」としての…アイデンティティの確立されたキャラクターが格段に増えた。

ポケモンにも性別や見た目の違い、さらにサイズ違いや亜種進化等々、またそれらの裏付けとか理由とか(最新の研究では~みたいなので追加される設定)

 

写実的というか「ありえそうな変化」があったなーと思う。

ポケモンが小さいものに入れる性質がある」というのは未だに信じがたいけれど……

 

 

僕は「動物が好きだから、せめて有機物をベースにしていてほしい」というのがあり、ドーミラードータクンが出てきたときは子どもながらさすがに。。。と思ってしまった。

対して上記の「個人のアイデンティティが確立されているかどうか」というのはあまり気にならなくて、そういうNPCだからというゲーマー脳っぽい雑さで納得してるのだと思う。

 

ピクミンもそうだが、「少年がやんちゃな遊びの延長でやるゲーム」から「かわいいキャラクターが登場するゲーム」として一般化していったあたりで、ポケモンというゲームに求めるものがそれぞれ人によって異なりはじめたのではないか。

(別にそれが良い悪いではなく、ゲームが一般的趣味や娯楽に普及した功績でもある。)

 

アルセウスは人間キャラに惹かれて始めた!とか、ポケモンを可愛がりたいし推しポケと旅を楽しみたい!という人には、ちょっととっつきづらいというか思い入れが持てないとこもあるかな……

でもそういう層が出てきたことによって、初代特有の不親切な部分やレベリング、取り返しのつかなさみたいなのは軽減されてる気がする。

 

 

アルセウスを楽しいと思えるかどうかの一番のラインは、無限捕獲とか無限採取とかを苦に思わないでやれるかどうかだと思う……。

(僕は道に落ちてるものなんでも拾うので)

 

ポケモン図鑑が一体捕まえて終わり、じゃないところとかも向き不向きだな~というか、過去作のようにレベリングで草むらを延々とうろつく作業が減った代わりに、淡々とデータを集めるという作業が増えた、

結果的に「日頃の積み重ね」でやりこみ感が強い(その割にやりこみ達成のメリットが小さすぎではないが、でかくもない)ところは

ポケモンシリーズとして一貫したストイックさが出てて面白くなってしまう。

 

明日以降は雪原のキングに会いに行きます。

 

 

 

======

 

センシティブな…というのは、

「なんで自殺未遂を繰り返すのか、しかも考えれば死ねないような場所で実行しておきながら救助を呼んだり発見されやすいようなことをしてるのか」みたいな質問に、

経験者が回答をしてたり医師や看護師等各方面の人たちが言及してたことについて。

 

 

(本当はtwitterのことについてこっちで話すのもずるい気がするが、ここは僕個人の領域であるという点である意味誠実かとも思っている。

リプや引用で語るのって、元ネタがあってそれに反響するようにコメント(短文)を重ねていく行為なので、便乗しているというか他者の提言した話題に自分はこう思ったという対話形式にならざるを得ない。と思う。

僕は個人対大勢という構図が好きではないので意地悪な言い方をすると「言い逃げ、言い捨てたもん勝ち」の空気感。

話の元ネタをリンクしないのはちょっと不義理かつ信憑性公平性に欠けるけど。)

 

 

僕はそういう、ODや自殺未遂をしたことはない。けれどもどちらかといえば「その可能性が高い」方の人間だと思う。

僕がそれをしないのは、命は大切だからではなくこれは絶対に一発勝負だと信じているから(自分の周囲の人物とか環境を考えると、二度目の実行は難しいと考えるから)。

 

躁鬱を持っている方が言っていた「生きてて楽しいことはある、けれども精神状態によって急に死にたくなるのが怖い」という言葉で新たに気づいたが、

僕は幼少期から今まで生きるべきだと思って生きてはいなかったし、潰しが聞かないことが嫌いだから死なない方を選択しただけだということだ。

生きてて楽しいから死にたくない、という気持ちは何か違う気がする。生きることそのものに楽しみはない。

 

 

また将来像というのがはっきりしていなくて、子どもの頃に将来の夢は?と聞かれて答えていたものは「現実性を帯びた、自分でつかみ取りたい夢」ではなく「こうありたいという理想像」だった気がする。

(もちろん趣味から派生して、小学生の頃は漫画家になりたいとか声優になりたいとか言ってたし、ごっこ遊び的なこともしていたけど。その時の僕が本気だったかどうかはわからない。)

 

例えば来年の五輪は4年後です、というニュースを聞いたとき「〇〇歳の私はこんな感じ」というイメージがまるでなかった。ただ存在しているだろう、というくらい。

結婚して家族がいるのが当たり前だとも思っていなかったとも思う。それに関しては非常に助かっている(現に結婚も子育てもしていないが、そのことについて過去の自分に申しわけないとかは感じない)。

 

年を追うごとにそういう性質は強くなっていき、最近は直近の楽しみのために生きられる!みたいなのが無くなった。

ゲーム新作が数か月後に出るぞ!となった時も、そのためなら死ぬのは惜しいとか思わない。それはそれとして別の事象であり、未来が死を引き留めるトリガーにならない。

 

過去にこういうことがあったから生きねば、みたいなのもないし、先祖の思いが…みたいなのもない。むしろ先祖の「死にたいけど、社会的に死ねなかった」怨念が堆積した結果の自分の存在だとすら思える。僕が孤独に死ぬことで解消される怨念。

 

自分の過去さえ他人事で思い出して懐かしむことはなくなったし、嫌なこと(特に対人関係で失敗したこと)は「教訓、今もしてはいけないルール」として、思い出とは違う枠組みで脳内に張り付いている。

 

僕は役目を果たすために来た異星人で、一人間としての役割を埋めて死ぬのが務めなのではないか。本気でそう思っている。

 

 

話を戻すが、僕は上記の自殺未遂者の気持ちやそれに関わる医療従事者の話を聞いて、やはり自分の場合は一発でことを済ませないといけないなと思った。

勿論やるべきことが終わったら。

 

そして僕が希死念慮に囚われた時も、うっかり死んでしまったら嫌だとは思わない。

このことにずいぶん悩んできたが(死を考えるのは誰にでもあるが、生を肯定する気になれないのは病気のせいではなく自分の気質なのでは?それは生物としてよくないのでは?通院するだけ医療費の無駄や担当医の迷惑なのではないのか?という疑問)

 

やっぱり自分は落ち着いている時も「生きてて楽しいから衝動的に死に走りたくないな」とは思わないのだった。それはそのとき、死ぬ運命にあったのだ。

 

僕が精神的に安定している時に考えるのはひたすら、

「今すぐではない」こと、衝動でなく事前準備を怠らず他者の迷惑を必要最低限に抑えること、一度決めたら一発で決行する(そして自分なら、一発で成功させるだろうという謎の自信がある)こと。

 

それを冷静に考えている(自分の存在を俯瞰している気分だ)時の自分が「本物」である。今はそう感じている。

 

 

 

そんな感じです。