一連のゲーム祭も一段落し、季節的にも絶妙になってきたので、
予想通り燃え尽きている。
ゲームどころか生活を送るための体力がない。
ない体力を金銭的不安とチオビタで補強して出勤。
いわゆるフルタイムではないが、本当に駄目な時は時間が無限に感じて、全身が虚脱するくらいの疲労感に襲われる。
帰宅する前に一旦座り込んで休憩したくなるが、安心して座り込める場所もないしさっさと帰宅した方が早い。
ゲームとか仕事とか、とにかく常に作業を流し込んでいないと漠然とした不安(よくあるやつ)が浮かんでくるので、マグロのように泳ぎ続けるしかない。
マグロのように…と形容すると大袈裟だが、死なないためには日常的に食事が必要だという人間の構造もまたせわしないと思う。食べる行為が煩わしい。
おやつは食べる、慰めの代替になるから……。胃が気持ち悪くなることもあるので良し悪しだけれど。
最近は完全栄養食とかがあるが、「完全栄養食のみで食事を成立させること」に対して十分満足して生きていける精神性が人間の方に備わっていないと、食事摂取の業からは逃れられない。
厳密にいえば、完全栄養食も水分も摂取しなければいけないのだから、思念体にでもならなければそういうものからは逃れられない。
よく考えると、塊状の筋肉が収縮して全身に専用の液体を送り込み続けて生命維持をしている、というの自体が脆すぎではないか?!と思うが、
個々の種族はそれくらい単純で脆い構造で、その代わり日々新しい個体に代謝していく方が、地球にとって大きな脅威にもなりづらいから、いいのか。
(ファンタスティックプラネット、もう一度観たい。視覚的には面白かった気がするが、ストーリーはあまり記憶にない。
命の脆さを目視して確かめたいと思ってしまう。贅沢者の現代人って感じで、嫌だけれども。)
生きている限り、その場にしゃがみこむようなことはできないのか。
逆に静止しているのが惜しいくらいの人生であるのがいいのかもしれない。
僕の脳はそういう永遠の活動状態を欲しているのかもしれないが、もう身体が限界なのだということをわかってほしい。
ゲームしたい!縫い物や書き物や借りたDVDや、色々なものに手を出したい!
と思いながら、ベッドにしがみついていた。
活動意欲という「自分なのに自分の味方をしてくれない衝動」に警戒するように、
信頼できる誰かの脚にしがみつく人見知りのように、しがみつきながら睨みつけて、少し涙目になった。
本当は身体と精神は一致しているのが幸せなんだと、わかっているんだ。
以上です。