普段通り、仕事してゲームして食べて寝ている。
ピクミンは一区切りのところ(クレジットが流れる場面)までクリアした。やり込みやその後に追加されるコンテンツはけっこう一筋縄ではいかなさそうで、戦々恐々としている。
犬に乗らないとピクミンはばらけてついてくるのだが、隊列の制御がきかない感じが緊張する。
ポケモンスリープもとりあえず続いている。
カビゴンの、シンプルに食べる/寝るという行為で十分な満足感が得られるというのは、高い生存能力だなと思う。
それ以外の幸せを知らないのはむなしいことだとされるかもしれないが、それで十分満足していられるのならそれ以外のことは些事ともいえるのではないだろうか。
栄養バランスやカロリーを気にして、平日には食べないことで自責し、休日には食べることで自責してしまう。不毛だ。
======
夏祭りや花火大会が毎年と同じように、今年もやってきた。
人のいない夏祭りや花火大会がこの世に存在しない限り、誘われでもしなければ自主的に行くこともないだろう。
そういうのを疎かにしているから低空飛行で緩急のない暮らしになっていくのかもしれないが、自分はこの方が安心感があるので、これでいい。
海には行きたいし、人のいない海だってシーズンオフならあり得るだろう。
けれども大学生の頃くらいから、海に行って「なんか違った」と思って帰ってきてしまうようになった。
なじめないというか……。
生命は海から生まれたという話が好きだが、僕のルーツは海ではないような気がしていた。だからといって木々が生い茂る森でもないし、なんとも言い難い。
でも還りたい場所がある、という感覚があってそこがどこだかわからない。
なじめないというのは、潮風で体がべたつくのが嫌だとか、砂が湿った足にまとわりついて不快だとか、そういう感覚がある状態で、
森も湿った土や切れ味の鋭い茂みや、そういう自分がそこに居続けることに苦痛を感じる場所になっているからだ。
そういう身体的な感覚がなくなって、場所と溶け込んで自己の輪郭がわからなくなるような場所が還りたい場所だと思う。
そこに行って嬉しいとか悲しいとかもなく、ただそこにある、もしくはない状態になるのが「場に還る」ということなんだと個人的には感じる。
多分そういう場所に行ったら人としては帰ってこられないだろうな。
でもそういう場所が(物理的にでもなく、抽象的にでもいいので)存在するという確証があれば、きっと日々暮らしている間も安心だろうな。
とりあえず、また海になじめなくてがっかりするのが悲しいので、僕は今年も海には行かないと思う。
以上です。