壁打ち

感想、考察、日記、メモ等

20230805

久々に酒を飲んだ。賞味期限があるから……(ハイボール

 

 

僕はアルコール耐性については「普通より少し強め」くらいだと思う。9%の缶とか。

けれども20代終盤になってからはプラス要素よりマイナス要素の方が強く出るようになって翌日に引きずるので、最近は飲む習慣はなくなった。

 

 

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ピクミンのダンドリ道場、肆(4つ目)を攻略中だけれども飲酒しながらで疲れてしまったので、今日はこれくらいにしておく。

多分4つ目でこれなので、後半になってくるとダンドリ要素以外(エイム、定数だけピクミンを振り分ける等、技術的な部分)も必要になるんだろうなと思った。

もう試行回数で解けるレベルの課題ではないのだろうか……

 

 

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毎日問題なく進んでいるはずなのに、何かずっと不安に付きまとわれている。それをゲームや家事や「作業」でごまかしてしのいでいるだけだ。

ニュースを眺めていると、こうやってごまかして何かを待っているうちに、自分もふとした拍子に死んでしまうか、平穏な日々が破壊されるんだろうなと思う。

 

毎日どうにもならないことで人間の人生が終わったり、何かが決定づけられたりしているなと感じて、自分にもいつかそのタイミングがくるかもしれないと心の準備をしている。覚悟と諦め。

 

 

貯金は、老後分まではないけど当面は生活できるだろう。この金額分だけが僕の「寿命」なのだと感じている。

それを働きつつジリ貧の程度を抑えつつ、経年劣化する家電や一般人として生きるのに必要なそれなりの装備を揃える。

 

あと、好きなものや食べたいものに少し振り分ける。

低コストで効率的な食生活や必要最小限の趣味(ありがたいことに、現代は無料分で楽しめるコンテンツがとても多い)にこだわってみたりもした。

しかしそういう生活をしていると、途中で生きること自体に必要性を感じなくなってくるとわかった。それ以降は、そういう余剰分にもお金を少し使うことにしている。

 

 

お金を使っても生きることの不毛さを感じて仕方ない時がある。

そういう時自分の中では、

なんとか色々なモノを買って気を引こうとする「現実的で社会的体裁を守る大人の自分」と、

感性が鈍って与えられたモノから喜びを得られない「虚無の生と死を観察し続ける子どもの自分」に人格が二分されたような感覚になる。

 

(人格分離はあくまでもイメージで、現実には自分一人なのは理解しているけれども)

 

そういう時はもう、どうしようもない。帰って食べて寝てやり過ごすしかない。

 

 

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快適な気温でうたたねをしている時や、例えば今の時期なら、ふとしたタイミングで心地よい風が吹いている時、この穏やかさの中で人生を終えられたらと思うことがある。

 

穏やかにこの世を去ることができた人って、今までどれくらいいたんだろう。

 

そしておそろしいのは、

穏やかに終わりを迎える人とそうでなかった人の間には、徳とか善性とか人生の積み重ねとか、そういうものは関係なく、

「ただ、たまたまそうなっただけ」であるということ、だと感じる。

 

 

 

 

まだこの世にいなければならないので、自ら死を選ぶことはできません。

 

そんな感じです。

 

 

 

※以前に似たようなことや、あるいは全く同じことを書いたのではないかと思うことがよくある。もしそういうのがあれば、こいつはまた既に書いたことを忘れて、同じ事ばかり書いてるんだなあと受け流してください……

実際に、昔からずっと同じことばかり考えているような気がします。