『フリップフラッパーズ』Youtubeで期間限定公開になってたので観た。
※毎週更新されてた5月頃に観た時の感想です。
以下に再生リストのリンク貼っておきますが、いつか非公開になると思われます。
7月3日現在はまだ観られそう
◎再生リスト
◎ED曲
この曲、かなり好きなので一緒に紹介しておきます。
◎作品全体の印象
個人的所感ですが、下記のタイプの作品が好きな人にはオススメしたい。
アニメの引き出しが少ないのでジャンルが分からんですが……セカイ系、雰囲気系とか呼ばれる感じだろうか。
考察勢がいるタイプの、ちょっとライトな感じ。
単話としても面白いし(アニオリの良さだと思う)、メインストーリーを展開しつつ
ファンタジー回、ホラー回、サイバーパンク回等々アニメーション映えするジャンルが複数楽しめて飽きがこない感じがよかった。
フリフラ&上に挙げた作品に共通してる点として、
人物の精神や深層心理が根幹にありつつも、画面のエンタメ性(ポップであり可愛い&カッコいい)が保たれているところ……だと思う。
(カイバとまどマギは絵柄の割に重めの内容を扱ってるというギャップもいいけど、
フリフラは重いながらも現実の生々しさが適度にアク抜きされている印象を受けた。
僕が重い設定に慣れすぎてしまってるだけかもしれませんが……)
◎検索して受けた印象
実は以前(多分リアルタイム放送時期だと思うが)
僕の知人がオススメしてくれてたんですが、アニメを追うのが基本的に苦手なのでその時はスルーしてしまった。(ごめん)
ガンダムで波に乗っていた自分には「今ならいける!」という妙な自信がつき、このタイミングで視聴したんですが、当時の考察とか反響も気になって調べた時……
マイナスな評価もいくつかあったのを知りました(というか、結構放送時は賛否両論だったのかもしれない)。
個人的所感を端的に言うと
「初見では一瞬すぎてついていけないとこもあるし、全説明してくれるタイプの作品ではない。その部分が許容できるかどうかで評価が分かれると思う。」です
僕も(特に漫画とか)不明点を不明なまま長期連載の伏線とかにされると、
脳内で保留してる情報が増えすぎて追い続けるのが億劫になったり、
伏線にうっすら気づきつつもメモとるのは面倒で飽きる原因になる、かといって後から該当箇所を遡るのに苦労するのも疲れる、
……というのがあり、苦手です
ただアニオリ作品の特徴として結構はしょって描写するのはよくあるし、そもそも理論的な可不可とか筋が通ってるかとかに重きを置かないイメージがあります。
(個人的なイメージですが。漫画や小説よりアニメはそういった意味での”自由度”が高い気がする)
制作陣的には裏にガッチリとした設定があっても、それそのものの把握や理解を前提としていない。視聴者はそれを絶対覚えてなきゃダメです!となりづらいのは、気軽に楽しめる一種の利点でもあると僕は思います。
多くを語らないというか、アニメとしての行間というか。
ーーーーーー
あともう一つの引っかかりとして、何か……視聴者が制作サイドに対して、気になる部分があったのかもしれない。
”ストーリーコンセプト”という部門(あまり聞き慣れない枠なので具体的にはわかりませんが)で
綾奈ゆにこさんが6話まで脚本等を担当されていたようですが、7話以降は他の方に担当が移ったという話があり。
それが事前に決められていた感じではなかった、本当は最後まで脚本担当のはずだった……というニュアンスを感じた?視聴者が当時いたようです。
(すいません、5月に視聴しつつ色々調べてた時にそういう話をご本人がしてたという内容を見かけたのですが、ソース見失いました。
あくまでも僕のおぼろげな記憶として読んでください)
アニメ現場ってまだまだ隠れている部分が多くて、現場の雰囲気とかどういうことがあったのか第三者は分かりませんが、
事実として脚本担当が途中で変わっていて
セクシー田中さんの件で(これは原作者と日テレ及び脚本家のことですが)
”大人数でチームとして制作されたものの実態”に敏感だった時期なのもあり、
正直、視聴時にちょっと割り切れない気持ちにもなった。
でも僕は何も知らないので、なんとも言えないです。
ーーーーーー
僕個人の所感としては
サッと見た時に「湯浅監督作品っぽい」という印象を受けて、
調べると制作陣の方々が『DEVILMAN crybaby』に携わってたと知り、やっぱりと思った。
前述したように、アニオリでアニメを作るというのは「予想通りに売りたい」とか保守的思考とは合わないような気がするし、
経歴的にもチャレンジングな表現を目指すタイプの作品だったのかもしれない。
だから上記のような視聴者の反応が出ても仕方ない、想定の範囲内ではあったのかなと思う。
あくまでもイメージだが
「基本的な部分、演出や話の流れはいつものメンバー中心で制作するが、
勢いのある若手を招いてビジュアルや世界観のアイデア・設定を融合させる」
という意図だったんじゃないだろうか。
(クレジット表記も途中から消された訳ではないし、
「シリーズ通しで脚本書いてもらうつもりだったけど降ろされた」というよりは
当初から「世界観と二人の関係性を固めて軌道に乗せてもらうための役職」という意図のストーリーコンセプト部門だったのかもしれない。憶測)
ただそれをやった時、その外部から招致したクリエイターのファンにウケるものを作るかというとそうじゃないだろうし
(演出そのもののウケの話ではなく、ターゲット層をどこに定めるかという話)
でも結果的に、第一印象で注目して来るファン層は心離れして(いわゆる”切る”、途中で観るのをやめて)
実際にその世界観を好むファン層はそもそも興味を持たない(絵柄やあらすじだけで興味なしと判断してしまう)という、
噛み合わない結果にはなっていたのだろうというのは感じた。
そしてその評判を聞いた未視聴層にもマイナスな印象が…という影響も。
僕自身、長いことノットフォーミーだと思ってたし
◎各話、ラスト等ネタバレ感想
フリフラ6話が好みの展開だけど、あまりにも自分の好みの領域
(解離性障害/トラウマとその治療/認知の歪みetc...)
のあるあるというか王道すぎでよかった。
ピュアイリュージョンの更に奥が個人のトラウマや無意識に閉じ込めた記憶に結びついていたり、そういったものに素人が触れるとよくない……という部分とか。
あくまでもフィクションなので、ココナの生活環境の異質さやウサギ?の存在などが突っ込まれずに進む。
それが後々の伏線だったりするのだが、このシリアスとポップな演出のライン引きは好みが分かれるかも
(伏線かと思ったのがちょっとしたアクセントだったり、逆になんかそういうもんなんだなーと認識していたものが実は”異質の伏線”だったり。)
6話に限らずだけど特に序盤、色んなジャンル(夢っぽい幻の世界、世紀末、ホラー)の王道展開みたいなのが続くのでストーリーのオリジナル要素は強くない。
ただその分メインの「ピュアイリュージョンで欠片を集める」ことにオリジナリティーが置かれているし、映像を楽しむことに特化していたので観やすかった。
(アニメや映画などでストーリーを追うのが苦手なので、複雑化すると映像そのものを楽しめない。
昔は巻き戻しも多用したけど、個人的な特性だと割り切って最近はとりあえず全体を見渡してから気になる部分を再視聴したり、調べたりしている。)
終盤に進むにつれ雰囲気は重たく(それこそ絵柄の感じでイメージされるよりもシリアスでSFっぽい硬質さが混じってくる気がした)、
(色んな意味で)爆発させて更地にするのでは…?!と危惧してしまった。
湯浅監督とかだとラストに色々破壊して再起不能状態から再生させるタイプだし(カイバ……)
という懸念もやや当たり、全破壊しつつもそれなりに修復しつつハッピーエンドだったのでよかった。
個人的に、パラレル系は完全に平和な世界(それ以前の世界と全く状態の変わらない世界)に戻ってしまうと
タイムパラドックス的なものを考えて消化しきれないやるせなさみたいなものを感じてしまうし、綺麗事だなと感じるので、
「確実に以前とは違うが、それでも変わってしまった世界を肯定できる」というのは納得できるし安堵感のある落とし方だったと思う(個人的には…)。
パピカの天然キャラは確かに人を選ぶし自分もこの先受け止めきれるのか不安だったが、このシーンがあってよかったと思ったのは
「ココナが好き」というパピカの言葉が話が進むにつれて実感を持ちはじめるところ。
ココナ自身も理由の見えないパピカの行動(なぜ自分を選ぶのか、大してお互いを知らないのにここまで自分を追いかけてくれるのか)が分からないし、
それは中盤のパピカとミミ、ココナの関係を知って裏切られたという確信に変わる。
視聴者(少なくとも自分)もまた、ミミがココナの母なのだろうと察してくると
「ミミが大事だったからその娘も大事、従属的な愛だ」と不可解な天然パピカの行動に裏付けができて納得してしまう。
ミミが娘(ココナ)を大切にしてたのを見てきたパピカが、ミミを喪った以上ココナに愛を向けるのは当然で、パピカが向ける愛情や誠実さというものにあまり価値を感じなくなってしまう(と思う)。
しかし最終話、ミミ消失直後もパピカが木の檻?に囚われていたシーンがある。
この時小さいココナが(これはイメージ世界の話なのかは明確に示されないが)ずっと囚われたパピカを見守っていたことが明かされる。
「おばあちゃんになって、赤ちゃんになって、今は私と同じくらいだ」というのは、パピカが木の檻の中で老いてまた生まれ、成長?していったという意味だと思う(理論は不明だけれど)
それをずっと見守っていた、1話目ではなく、本当に最初の最初にパピカに興味を示したのはココナの方だったとも言えるかもしれない。
記憶も何もかも失ってしまった(生まれ直してしまった)パピカに、ココナは食べ物を持ってきてくれる、そばにいてくれる。
その時パピカが「私と友達になって」とお願いをする。
これが二人の最初期の出会いだった。
それでもこれはあくまでも昔の話で、今はどうなのか?
最終話の後半、ココナはミミ(母)の船に乗って自己決定をしない世界にいたかった、と打ち明ける。パピカが無理矢理手を引いて船から降ろしたから。
パピカはココナと一緒に冒険がしたかったから。ココナと一緒じゃダメだったから。
この答えにココナは「ピュアイリュージョンに行くためだったから」という応答をする。それは揺るがぬ理由の一つだったし、パピカは言い逃れができない。
でもパピカはそれを否定する。ココナが大好きだったから、と言う。
文章にすると上っ面に見えるけれど、ストーリーを通して「ココナがいることの意味」が確実に変わったことは、二人の冒険を通して(観る側の)実感として残ったように感じた。
ココナもパピカが好きということを、疑心暗鬼や真実に対してショックを受けたりしながらも、回を重ねていくごとに純粋な本人の気持ちとしての「パピカが好き」に変わっていったんだと感じる。
この辺は本当に”シリーズを追った実感”としか言いようがないし、
上記の「パピカはピュアイリュージョン(=ミミとの再会)のためにココナを連れて行ったんでしょ?」という部分は変わらない。
理屈は変わってないんだけど、気持ちは変わったんだ!というのがすごく難しいと思う。具体的な証拠やはっきりした行動原理がないから。
でもそれがリアルな「好きだと思ったから好きなんだ」というものなんじゃないだろうか……?!と個人的には感じた。
でもまあ一番良かったのはやっぱり、実はココナはパピカとずっと昔に会っていて、友だちだったという部分でしょうか。
他アニメから引用するのはあまり上品じゃないかもしれないが、湯浅監督作品『カイバ』の設定資料で(多分カイバそのものの資料じゃなくて、湯浅監督の作品のアイデアをまとめた本だったと思う)、
ネイロの「好きだからよ!」というシーンに対して監督が
女の子って理論とかそういうもの以前に”好きだから”という答えそのものを原動力として動けてしまうのがすごい、的なことを言ってた気がして(曖昧な意訳です)
それを思い出しました。
考察とかしてるとどうしても行動の裏付けや理論的な筋道が明示されてるかどうか気にしてしまうけど(自戒です)
そういう部分だけが人間じゃないしアニメーションでもないよなあと思った。
コンプラとかここは視聴者に矛盾点を感じさせたらよくないとか、そういうピリピリした構成のしかたがSNSで更に拍車がかかっているように感じる。
魅せ方はテクニックだとか、作画がスゴイ!とか。
また前述した話に戻ってしまうけど、そういう「いかに減点を少なくしてテクニカルな部分や理論としてパズル的にカチっとはまる、コンプラ的な古い価値観や道を外れた価値観は削っておく」みたいなものを極力抑えめにして、
純粋にアニメーションとしてこういう楽しみ方はどうだろうか、という作品だったように感じる。
(アニメもそんなに観ない人間が色々言える立場じゃないですけど!)
そういう風に感じました。
まとまりが無くてすみませんが、以上です。