デジモンの世界観が気になっていたが、空気感が苦手だった。
コンプレックスを強く感じさせたというのがより近いニュアンスかもしれない。
その世界観のカッコよさには憧れた。
理解したいと思った、けれど結局自分の中には何故か定着しなかった。
彼らは選ばれた子どもで、自分は選ばれなかったことをまざまざと思い知らされるから。自分は選ばれたかった。
ポケモンが好きでデジモンがなんとなく継続して見られなかったのは、ストーリーが当時の自分にとって理解の難しいものだったからだと思う。
当時のポケモンは比較的生き物の生態観察のような面が多かったように思う。
僕は動物が好きだったし、バトルの勝ち負けも大事だったがそういう「ポケモンが主体」な部分が好みだったのだろう。
対してデジモンは家庭の事情の複雑さやそういった事情を通した人同士、デジモンを介した絆が描写されていた印象が強く、
僕はとても恵まれた環境に暮らしていたので、
そして僕の理解は基本的に共感ベース、自己投影によるイメージによって得ることが多かったので、
想像もつかないような(状況は分かるのだがそこに付随する心理的ゆらぎの緻密さなどはイメージがし難い)世界を客観的にみて、ストーリーとして捉えることができなかったのだろうと思う。
「自分は恵まれている(のに、なぜこんななんだ。他者に命を譲り渡すべきだ。貧しい人たちや苦境にある人たちに、自分の身を削って分け与えなければいけないのだ)」という罪悪感もあったし。
だから僕は根性がなく、芯もなく、選ばれもしないのだと思っていた。
※参考。千と千尋の項
※参考2、2024-04-02「Aさんは自殺未遂をした」より。記事自体はこの話がメインではないのでリンク貼りません。
(僕は)「他者の幸福のために全てを喜捨しなさい、自分の身を削って他者に差し出しなさい」と言われ続けているように感じて生きてきた。
「世界では貧しい国の子どもが飢餓で亡くなっています」という言葉の裏には「どうしてお前ごときが幸せを甘受してむさぼって生きているのか。反省しなさい。全ての財産を彼らのために差し出しなさい」と言われていると思っていた、小学生くらいから。
そういうCMが流れるたびに、生きていてごめんなさい、食べ物を食べてゴロゴロしてばかりでごめんなさいと自責した。
今でも反射的にそう感じるが、こらえている。募金をすればいいのだが、子どもの頃親に反対されてから募金行為自体が恐ろしくなってしまった。(親は変な団体に募金するよりはきちんとしたところに募金しなさいという意味だったと思いますが、僕が幼く馬鹿なのでそう理解できませんでした。今でも怖いです、申し訳ありません。)
結局はNotForYouというか、自分のような人間はターゲットではなかったのかもしれない。
孤独を知る子どもなら、もっと真っ当な芯を持った子どもなら、もっと理解できたのだろうか?
以上です。