壁打ち

感想、考察、日記、メモ等

20230424(映画『怒り』の田中、荒木飛呂彦の“怒の季節”)

久々に職場で嫌な思いをした。

 

 

『怒り』という映画で、森山未來が演じた「田中」を思い出す。

自分がああいう風にブチ切れてしまったらどうなるんだろう。そうなってしまった後の自分が、得体の知れないものになってしまいそうで恐ろしい。

たまたま前の職場でこの映画を観た人がいた。恐かったねという話にはなったが、その人にとって多分田中は「向こう岸の話」なんだろうなと思った記憶がある。

 

自分がどれくらいの深さの怒りを内包しているのか、生きていてだんだん分からなくなってしまった。

仕事だけの付き合い、表面的な外交の場では感情的にならない方が、物事が穏便に進む。人と関わる機会が職場くらいしかなくなると、内部の感情をそのまま表に出すような場面が減った。

 

その頃から、自分が人と関わるときに感情的なスイッチをoffにしている感覚が生じた。

理不尽なことがあっても上司だから、お客様だから、お金をもらって仕事をしているのだからというもっともな理由があるから、何も感じなくなった。

逆に褒められても、嬉しいと思うこともなくなった。やる気を出させるための言葉の綾、「手段」だろうと思うようになった。

 

 

ただ、年に一、二回くらい、あらゆるものに怒りが沸いてどうしようもない時期が出てくるようになった。

そういう時は押し黙るしかない。人を傷つけたくないし、今後にも差し支える。

今まで耐えて積み上げた信頼や距離感が崩落する。

 

荒木飛呂彦(ジョジョの作者)が『怒の季節』と呼ぶのは、こういう時期なんだろうか。あらゆるものに怒りが沸く時期。

僕の場合の『怒の季節』だと、自分でも理不尽で支離滅裂だと感じる理由でも、とにかく内心で爆発してしまう。黙っているけれど。

どうしても耐えられない時は、二の腕の見えない所に痣ができるまで噛み付いたり、ピアスを開けたりする。その痕跡を見ると何故か安心する。それで溜飲を下げる。

 

 

映画『怒り』の中で、田中が懇意にしてくれた一家のキッチンを荒らすシーンを思い出す。

多分田中にとっては、人と親しげに関わっていた彼も、暴れまわり傷つけ破壊する彼も、どちらも本物の彼である気がする。

切り替えがうまく行かなかったとき、きっとこうなってしまうのだ。

 

怒の季節が過ぎるまで、静かにしていられるだろうか。少なくとも、周りを傷つけるようなことはしたくないのだけれど。

 

 

そう思っています。