朝早く目が覚めてしまって、起き上がるか否かを考えている時間は苦しい。
それはなぜか今までわからなかったが、理由はいつも通りのことだった。
僕にとって、結末の定まっていないものは恐ろしい。
今日一日がどのようなラストを迎えるのか、そこに至るまでにどんな不快や面倒くささを味わうことになるのか…
可能性が無限に広がっている。
希望を持てる人なら好条件だろうが、僕にとっては闇に突っ込むときの気分の方が近い。
例えば、完結していないコンテンツ。
連載中に読みはじめた漫画を完走できたことがほぼない。
本当は好きな作品ならば連載中こそ応援すべきなのかもしれないが、成人してからは既に連載終了した、ラストの定まった漫画を読むのがほとんどだ。
連載中から読みはじめても、自分の生活を送りつつ新刊をチェックし、ラストまで読めるかどうか。
新刊チェックで思い当たったことがある。
いつくるかわからないものを待ち続けるのも苦手なのだ(例えば、電話や来客の応接なども)。
自分の将来の状況もわからない。
それが恐ろしい。
コンテンツを追うことに関しては、僕自身の集中力や興味が続かないことにもある(作品そのものの本質的な面白さは変わらないとしても)。
終わっていないものを継続し続けることが自分には向かないらしい。
翻って、自分や大切な人の人生もそうだ。今後なにが起こるかわからないものを続けていくこと自体に、恐ろしさを感じてしまうらしい。
無事にゴールまで辿り着けるのだろうか。
大切な人ならば足下の小石につまづかないよう常に見ていなければ、という強迫観念がつきまとう。
当人にとっては鬱陶しいだろうし、僕自身消耗してしまうからやらないけれど。
自分の子どもも持たないだろう。
彼/彼女の人生が幸せになる保証がとてもできないからだ。
(もっとも今の日本では、潤沢な蓄えと家父長制に沿ったパートナー、将来が脅かされても立て直せるだけの健康な心身と資金の余裕がなければ、その子どもが幸せになれるスタートラインに立てない気もする。
どんな状況であれ子どもは希望を見出だす力があるが、それに寄りかかった親にはなりたくない。
僕の今の状況では、子どもは不幸になるだろう。)
夜になってできることが限られてくると、やっと僕は安堵感に包まれる。
寝る前のこの時間でできることはだいたい決まっており、その時少ない選択肢からその日の気分で選ぶという「必要最小限の自由」が、僕にとってのしあわせだ。