吉良吉影に選択肢があったなら、というのは
(最初の殺人を犯す前か後か、人生のタイミングにもよるが)
・両親や社会とのしがらみがなく
・自身の社会的には異常とされる性欲と衝動性について考えたことがあり
・それを穏便な形で治療できる(他者に咎められず褒められもしないが、誰にも知られずに抑制できる可能性がある)
のであれば、
彼はそれでも平穏な日常を危険に晒しながら殺人を犯すか、
蠱惑的な快楽を捨てて平穏な日常を求めるのか
ということだ。
「激しい喜びはいらない、そのかわり深い絶望もない植物の心のような人生」
を求めるならば、生まれもった(あるいは生きていく上でそれがなくては生きてはいけなかった)悪癖は、邪魔に思ったこともあるのではないかと思う。
でもそれを捨てれば彼は彼そのものでなくなってしまう(アイデンティティを見失う)だろうと予測し、躊躇するだろうかとも思う。
ジョジョ4部の連載時代ではまだ、精神病理的分野は今より浸透していないだろうなと思う(あくまでもイメージだけですが)。
ただ90年代作品に心理学が用いられることも多かった(エヴァ、Lain等々メインに扱うものから、ただネーミングとして心理学用語が用いられる程度まで)。
解像度としては、病の存在はわかっているし検査や診断はできるが、
具体的に「社会でどう上手くやっていくのか。薬がどういう作用を及ぼし、どう認知的フォローをするか」というところまでは難しい課題だったと思う。
吉良のことに話を戻すと、彼は今まで何の問題もなく過ごしてきた。
しかし各エピソード(3位を狙う、それなりの職場で出世はせず暮らす)で、「何の問題もなく在ろうとした」のだと推測されている。
彼の、表には出ることのない努力で。
そういう点から、社会で擬態して生きていける程度には境界例(ここではボーダーの意)的であり、
彼自身が病的ではないかと考えたり、悩みとして他者に助けを求めたりしなければ誰にも気づかれないままだったのだと思う。(犯罪に発展してしまった結果、明るみに出てしまうのであるが。)
ある精神的な病気の診断で使われる質問項目に「急に人が変わったようだと他者に言われたことがある」というものがあったりするが、
彼はそこをすり抜けてしまう。他人にはそういう一面を隠しおおせているし、誰も彼にそれを指摘するほど親しくなかったからだ。
彼を好ましく思う人は良い面だけを見て、悪い面は見えなかった。敢えて探されるほど目の敵になることもなかった。
吉良吉影は(途中参戦の父親はともかく)全てを自分の中でうまくとりなして、自分の中の植物の心と獣の心のバランスをとろうと努めていた、と個人的には思う。
現代の何らかの「治療薬」で、獣の心を抑制して植物の心を守り続けられるなら、彼はその治療薬を求めただろうかと考える(もちろん無限地獄に堕ちた後なら迷わず手にしたいと思うだろうが)。
こんなことを考えても、そういう風にしか生きられなかった、もう結末が確定してしまった吉良が救われることは永遠にないのにな、と不毛に思って寂しくなった。
人をあやめた罰だから、もう仕方のないことだけれど。
そう思いました、という話です。