本当のことは、人には言えない。
本当の自分は、人には見せない。
(から、こういうところに書いたり手書きのメモで残したりする。公開設定にしているのは、僕自身がそういう他の人の壁打ちを読むのが好きだから)
神聖かまってちゃんの「美ちなる方へ」という歌の歌詞が好きだ。
“なるべく楽しいフリをするさ誰だって
憂鬱になると気ずけば誰もいないんだ
知っているからたまに狂っちまうんだ
君には見せたい素顔があると思います”
楽しいフリ(というか、話しかけるときは笑顔でとか、人前でため息をつかないとか、そういう細かい仕草)で人と関わることをできるだけスムーズにしてきた。
それは生まれつき人と関わるのが苦手だから、後から習得した「振る舞い」で、「普通の人を演じること」だ(僕の場合は)。
素の自分がちらついてしまったとき、人がそれを見てたじろぐので、怯えてしまう。本当は僕は悪意を持った人間で、嫌みったらしい部分がバレてしまえば、皆自分を守るために警戒するだろう。
ずっと理想を演じられればいい。「なりたい自分を目指す!」という、よく聞くキャッチフレーズのように。
でも僕にとってなりたい自分とは、素の自分と相反する存在だ。延長線上にはないと感じる。
だから自己矛盾を抱えて、一定量を越えると発狂してしまう。
発狂とは具体的にいえば、職場の人たちが帰宅する時間帯にトイレに籠り、人気が少なくなったタイミングで帰宅するとか…
誰かと顔を合わせたくない、できることなら全く面識の無い他者とも同じ空間に居たくない。発狂とは、僕の場合そういう状態になることが多い。
本当は矛盾した殻の部分だけじゃなく、中身の醜い部分まで受け入れてほしい。でも相反した殻の部分を見せてなんとか繋いでいる時点で、それは不可能だと途方にくれてしまう。
本当は醜い部分がバレていたりもするだろうが、誰もそれには触れない。僕の核心に触れて、それが逆鱗かもしれない危険を冒してまで、僕に興味を持つ人はいない。
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“憂鬱になると傷つけたりしてしまうことを
知っているからたまに狂っちまうんだ”
たまに心身の不調から殻が破けて、中身のグロテスクな部分を人に見せてしまうことがある。
親しくなればなるほど、自分の悪意や暗い部分を出せば、相手が不安がったり心配してくれる。
それが表面的か心からなのかに関わらず、相手に申し訳ないと思う。
表面的な心配の素振りには、気を遣わせてしまってごめんなさい。
心から心配してくれるなら、こんな悪者に気を病む必要なんてないのに、不安がらせてごめんなさい。
“悲しい顔を君には見せたいと思います”
悲しい顔をそのままあなたに見せたら、あなたは面食らって怯えるだろうか。別にそれでも仕方ないとわかっているから、怒りの感情がわいたりはしないと思う。
でもやっぱり自分は害悪なのだと重い知らされるようで、傷つくだろうと思う。
そして人の中で生きるには永遠に演じ続けなければいけない、途方のない余生のことを考えてしまう。
だから何も見せない。壁打ちで自分自身を満足させて、自分以外の人間とは外面だけでうまくやっていければ穏やかだから。
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“僕は出かけるようになりました”
そう言えるの子さんはすごいと思う。
僕は子どもの頃から何度も自分が傷ついた思い出を取り出しては、傷跡を舐めながら、石のように黙り込む。
それが最良だと思ったままでいるひねくれ者だから。
前進を恐れる者よと罵倒されようとも、ずっと立ち止まり続ける頑固者だから。